第4回目 「震災を考える」 豊原大成(浄土真宗本願寺派前総長)

講座内容を紹介した神戸新聞の記事です。
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豊原大成
以下は講座の内容を口述筆記したものです。

2011年5月23日

「震災を考える」

豊原大成

今年1月インドのこと、50年余り前に2年間ほどインドに留学しておりまして、以後よりよりインドに参るのですが、今年も西インドのボンベイという有名な町から飛行機で30から40分、デカン高原の西北の端あたりの石窟寺院に行って参りました。岩肌をくりぬいて中に非常に立派なお寺をたくさん造ってあります。大小、簡単なもの立派なもの、インドは1200くらいあるようです。仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教各宗教の窟院がある中で一番有名なアジャンタ・エローラでは30人あまりが生活しています。今までこんなことはなかったのですが、今回は岩窟の中に住むこうもりの糞にやられたらしく喉を痛め、帰ってきてお医者さんに診てもらったら肺炎だといわれました。ところが帰ってきて翌日に京都の西本願寺で議会がありまして、ほとんど休むことなくおりました。年を取って肺炎になるとたいてい命が危ないといわれますので、いよいよかと思っておりましたが、毎日少しづつ良くなっています。ただ喉のほうがしっかりしません。本来ならもう少しいい声なのですが。

ところで私、神戸は第2の故郷です。寺はJR西宮駅のすぐ北側にありまして、西宮は第1の故郷。第2の故郷が神戸。これは私、昭和18年に当時神戸一中という学校がありまして、灘駅の上のほう観音山というところは今でも同じ名前であると思いますが、そこにある学校に入学しまして23年まで、ちょうど旧制の中学の最後まで5年間おりましたので、神戸は第2の故郷。それから京都へ参りまして京都は第3の故郷。それからインドへおりましたからインドは第4の故郷。あちこち故郷があるのです。

 

その神戸時代、これは戦争戦後の一番大変なときでした。昭和12年の7月7日北京郊外の蘆溝橋で戦争が始まりまして、それが昭和16年12月8日、いわゆる大東亜戦争、太平洋戦争に発展しました。そのときは小学校5年生、その後神戸一中に入りました。ところが昭和18年というのは、我々はまだ勝つんだと思っておりましたが、実はもう敗戦への階段を駆け下りているような時期でありました。昭和16年の暮れに戦争が始まって、17年の4月18日だったか、まさかと思ったアメリカの空襲があったのです。航空母艦に本来陸上でしか飛ばない双発機(プロペラがふたつついた爆撃機)を積み込んで日本海軍の監視をくぐって東京に空襲しました。神戸も空襲されています。昭和17年、1発か2発か落ちたと思います。

その年の6月です。東京の空襲が大変だ、もっとアメリカを遠くにやらんといかん、そのためにはサイパン、グアムその線ではだめだ、もっと東のほうまで日本の力を拡大しなければというので、ミッドウェーという珊瑚礁、しかし非常に大事な場所を占領する、そしてアメリカの海軍を誘き出してそこで全滅させようという計画でいました。ですが、むこうは当時日本にはなかったレーダーがある、それからこちらの無線の暗号が全部解読されていて、こちらの動きは全部むこうにわかり、むこうの動きは全くわからない、というので日本の海軍はほとんど壊滅しました。以後アリューシャン列島に進出しましたがアッツ島で2000人の兵隊さんが玉砕しました。

その年の暮れくらいには、ソロモン群島のガダルカナルなど何千何万という兵隊さんが敵の弾、飢え、病気で死ぬということで、どんどん日本が危うい状態になっていきました。そのうち、昭和19年6月だったか、とうとうサイパン島をアメリカ軍が占領しました。そのときの日本人は絶対に負けない、負けるくらいなら死んだほうがましだというもので、島の北の崖から飛び降りて民間人が死にました。日本万歳、天皇陛下万歳といって飛び降りたというので、バンザイ・クリフと名前をつけたようですが。

サイパン島が占領されると、そこを基地にアメリカ軍のB29による空襲が始まります。一番有名なのが昭和20年3月10日の東京の空襲です。この空襲は焼夷弾による攻撃で、爆弾のように破裂はしませんが、燃えます。日本の家屋は木造だったので焼夷弾攻撃の絶好の的になりました。東京がまずやられまして10万人死にました。ついで大阪が3月12日の夜から13日にかけてやられ、これも何万人かが死にまして、それぞれがほとんど灰燼に帰しました。神戸は3月17日にやられ、その後西宮も8月5日の夜空襲がありまして、夜が明けたら広島の原爆。それまでにも何回か空襲がありました。

神戸の場合は20年5月11日に川崎製鉄、神戸製鋼など灘から三宮にかけてある工場を爆撃しました。そのとき私はまだ学校におり、3年生でしたが、灘の麻耶山の中腹の学校が、海岸線に500キロとか1トンの爆弾が落ちると揺れるのです。危ないから逃げろということで、ちょうど山の中腹ですので裏山に逃げたのです。そしたら大きな防空壕がありまして、学校に兵隊さんが駐屯していた関係で、兵隊さんも防空壕に逃げ込みます。私も入ろうとしたら馬が繋いでありまして、脚で蹴っているのです。何々は馬に蹴られて死んじまえという言葉があって、とにかく馬に蹴られて死んだら末代までの恥だと思いましてその防空壕に入るのはやめて、兵隊さんにどこかほかにありませんかと尋ねましたら、山の中腹を向こうに行けばあると言われまして、ひとり細い道を防空壕を探しながら歩きました。そうしましたらザーッという音が上からしまして、ふっと見上げるとB29の編隊5、6機が降りてきました。ザーッという音は爆弾の落ちる音です。焼夷弾は小さいからサーッという軽い音、爆弾は大きいからザーッという音がします。これはいかんと思って、ぺたーっと地面に伏せていたのです。そしたら爆弾が落ちまして、体が地面から突き上げられるような感じがしました。爆弾が炸裂した大きな音。

そして、はっと気がついたらそれまで私が逃げてる丘の尾根にあった日本の高射砲かなにかの陣地が全部やられていました。それから一瞬、全然音が聞こえず静かになりまして、あっと思って上を見たらさあ大変です。上で土塊やら岩、石がバアンと破裂します。それが私の周りにどんどん落ちてくる。無数に落ちてくる。これは長く伸びていたらだめだ、できるだけ縮まらんといかんと思いまして、じっと上を見ていたら幸い私には1発も当たらず周りに落ちました。その間10秒か20秒くらいだと思います。しかしたぶん自分はあたって死ぬだろう、と思いました。それでそのとき自分が死んだらどうなるんだろう、まず自分のこと、それから自分の一生をザーッと頭の中に想い出します。自分はどうやって生まれた、お寺に生まれた、どうだったこうだったと。今度は自分の死体を誰が発見するのだろう、発見したらどうやって運んで家へ連絡するのだろうとか、父にどうやって連絡するのだろうとか、もういろんなことをほんの10秒か20秒の間にザーッと考えまして、今80歳を過ぎていますが、おそらくこの一生の間であれほど頭が働いたことはないと思います。そういう体験を戦争の末期にいたしました。それが私のいわゆる臨死体験といいましょうか。

 

ところが臨死体験というのは案外本人も気づかない場合が多いのです。私が小学校2年生の3学期のことです。ある日顔が大変むくんでるのでひょっとしたら病気じゃないかというので、父が医者で母が父の手伝いをしていましたから医学に多少の心得があり、尿を採りまして蛋白を調べました。とにかく学校に、と行ったら途中で迎えに来まして、学校なんか行ってたらだめだ、すぐ帰りなさいと帰らされました。蛋白が5.5、蛋白だらけの尿をしていたのです。すぐ入院させられました。ところが最初の晩は病室が満員。ともかく入れとレントゲンの部屋でひと晩明かしました。それで夜中に気がついて周りを見たらおばあさんたちが泣いてるのです。なんで泣いてるのかと思ったら、たぶん私は死ぬ寸前だったらしいのです。こちらは子供ですし意識もはっきりありますから、どうして泣いているのかくらいに思ってたのですが、自分の知らない間に死の影が迫ってくる、というようなこともあります。幸い非常にいい看護をしてもらいまして2ヶ月半入院しましたが無事帰ってきました。

形はいろいろ違いますが、自分の知らない間に自分の命を取りに来ているという場合があります。例えば、昭和33年から35年までインドへ留学していたのですが、34年の夏です。インドの夏というのは涼しいところもあります。ヒマラヤのほうへ行くと涼しいのですが大部分は暑い。私が留学しましたのはベナラシといいまして、ちょうどガンジス河の中流、河で沐浴する姿をテレビなどでご覧になると思いますが、その町の郊外に大学があったのです。だいたい3月の終わりから6月くらいは日中は45度から50度近くなります。日中はとても外には出られません。昼前の朝10時か11時頃に西のほうからゴーッと音をたてて風が東のほうへ吹くのです。それは東のほうが先に暑くなっているからだと思いますが、その風は焚火の側で感じるような熱い風です。それで皆4月になると避暑地、ヒマラヤの麓のダージリンやカリンポンなどへ行くのです。

私は同じ留学生の友達に相談して、シムラというデリーの上のほうのヒル・ステーション(英国時代、夏の間に政庁がそこへ移った)へ行ったのです。その辺まで行きますとヒマラヤの地域のいろいろな資料があります。せっかくここまで来たので、チベット人の住む地域にラマ教という仏教がありますが、それを見に行こうとひとりバスに乗って北のほう、西ヒマラヤの登山ベースキャンプのマナーリというところへ行きました。そこでいろいろ情報を集めて、5頭だてのラバが峠を越して向こう側、チベット系の人々が住むところへ行くのを見つけまして、交渉してそのうちの1頭を分けてもらい馬子とふたり4000メートルの峠を越しました。その峠に上がる2000メートル中途で山小屋に1泊しました。山小屋は2階建てで上は人間が泊まる何もない板敷きの部屋、下は枯れ草を入れたり家畜を入れたりサーバントが寝たり、かなり大きなところです。その2階で寝ます。大きなムカデが這うので殺虫剤を体の周りに撒いて。

すると夜中に下で声がするので、おかしいなと思っていたらその声がだんだん近づいてきます。私は知らん顔してたのですが、カンテラで私の顔を照らすのです。そうなったら起きなければしょうがないので顔を上げたら、馬子でないもうひとりの男が「おまえは中国人か」と訊きます。「いいや日本人だよ、日本ってわかるか」と答えると「知らん」と言います。それで「ここから向こう側へ行くとラホール、ラホールの東がスピティ、スピティの東がチベット、チベットの東が中国、その先に大きな湖(海と言ってもわからない)がある、その向こうが日本だ」と説明し、仏教徒の証拠にと父が私に持たせた数珠を見せたら納得したようです。それで「おれが中国人だったらどうするつもりだった」と訊くと「殺すつもりだった」と言います。どうしてかというと、ちょうどその年の1月か2月にチベット動乱がありまして、ダライ・ラマがインドへ逃げてきたということで、「だから中国人が嫌いだ、中国人だったら殺そうと思ってた」とナイフを持っていたのです。だから知らない間に死の影が私のところへ、うっかり冗談にでも中国人だと言ったらえらいことになっていました。今年で50回忌くらいになっていただろうと思いますが。

 

そのほかいろいろ世の中というのは、ナロー・エスケープという言葉がありますが、野球などでも間一髪セーフというのは多いわけですけど、危ういところでということがいっぱいあります。考えてみたらナロー・エスケープの連続で私たちの人生は今まで来たのではないかと思います。今年インドで喉を痛めて、帰ってきて診てもらったら肺炎だといいますから、これもナロー・エスケープで何とかなったと思ったりします。私の父ですが、ちょうど私が爆弾攻撃をやられた頃、それまで満州のハルピンに駐屯しておったのが、アメリカ軍が宮崎県の千々石灘で上陸するんじゃないかというのでその防衛のため満州から来たのです。もし移動してなかったらそのままシベリアに抑留されてどうなったかわからない。これも運がよかったと思います。

それから8月5日夜の空襲ですが、お寺の門に1発焼夷弾が落ちたのを屋根に上がって消しまして、中庭に1発落ちたのも弟とふたりで消したのですが、幸いそのほかにどこも落ちなかったと思っておりました。そしたら戦争が終わってみると本堂の屋根があっちもこっちも。上がってもらって見てもらったら、焼夷弾が本堂の南側の棟に数十発突き刺さってたのです。1発も突き抜けずに上で火を吐いて。北側はどうだったかといいますと、これは後で聞いたのですが寺の北側に住んでいた娘さんが言うには、きらきら輝きながら花火が落ちてくるような感じで焼夷弾が落ちてきて、お寺の屋根にカチーンと当たったら跳ね返ってうちのほうに来るんですと。その娘さんの家一帯は丸焼けになりました。それからもうひとつ、もし庫裏のほうに1発でも落ちてたら完全に突き抜けて、庫裏が焼けますと本堂のほうも類焼したでしょう。全部仏さんが引き受けて下さったのだろうかと思います。

 

それから1月17日の震災ですが、その当時は本願寺に勤めておりまして京都に住まいがありました。16日たまたま体が空いたので1週間ぶりに帰ってきまして、父、家内、ひとり娘と4人でご飯を食べました。ところが17日にお勤めがありますので夜9時過ぎ家を出て京都へ帰って、あくる朝5時46分に震災。すぐにテレビをつけましたら京都も震度5、西宮も震度5、淡路だけが震度7と最初はそういうふうに報道されたと思います。私の住んでおりました住まいは木造で50年くらいたっており、役目柄住んでる家なので役宅というのですが、あちこち隙間が開いているので口の悪い連中がアクタクというのです。そのアクタクが壁などにひびは入ったけれど倒れなかったので、同じ震度5ならうちは大丈夫だと思っていました。しかし大きい地震だったので半分義理で電話をしたのです。そしたらベルは鳴るのですが一向に人が出ません。震災のせいで電話もこんなんかな、くらいに思っておったのですが、そのうちに事務所に出勤しまして、そこからあちこちに電話をしました。神戸の知り合いのお寺、西宮の知り合いのお寺、あちこちお寺に電話するのですけれど通じません。2ヶ所だけ通じまして、1ヶ所は神戸のお寺で、もちろん庫裏もだめ、本堂も傾いている、山門は潰れた、釣鐘堂も潰れた、「今どうしてる」と聞いたら「庭にいる」と。「寒いときに庭じゃ大変だろう、風邪ひかんようにね」と呑気なことを言っておりました。

そのうちに甲子園球場の東のほう、鳴尾の寺に連絡がつきまして、ここも似たようなことを言うのです。本堂もだめ、釣鐘堂も、山門も潰れたと。それから2、30分してJR西宮駅の公衆電話からうちに掛けると、「お寺が大変なことになってます」と言うのです。当時お手伝いさんがふたりおりまして、ふたりとも大変なことになってる大変なことになってると泣きながら言うのです。どうなってるのか訊いてもどうなってるとははっきり言わないのです。大変なことになってるのは放っておくわけにはいかんだろうと、車で向かいました。普通なら名神を通って1時間くらいなのですが、6、7時間かかって結局寺にたどり着いたのは午後5時頃でした。あちこち家が倒れ道が塞がってて回り道をしまして寺の門まで着きましたら、門徒の青年がそこに立っています。「どうした」と言ったら「だめです」と。「3人ともか」と言ったら「はい」と。「遺体はどこだ」と訊いたら「本堂です」と言うので本堂へ参りました。父と家内と娘と3人並んで、それぞれ布が被せてあったのをひとりづつ取りまして、娘だけが、実際は生きてるはずはないのですが、やっぱりひょっとしたらという気がありまして、娘の名前を呼んだのですがもちろん応答はない。はっと気がつきまして、門徒の人はどうなってるかと近所の公民館へ行きましたら、立錐の余地もないくらい皆逃げてきています。小学校へ行きましたら、講堂にあちこち3人5人としゃがんでおり、その輪の中に遺体が寝かされてありました。それで「皆さん大変でしたね、ここは暖房が効いてて生きてる人には良いが遺体には悪い。お寺の本堂は寒いけれど遺体には良い。どちらでも好きなほう、何なら寺へいらっしゃい」と言うとそこに市会議員がやってきたので「ひょっとしたら合同で葬式しなきゃいかんかもしれませんね」と言いながら寺へ帰りました。結局生きてる人のほうが大事だったのか、誰も暖房の効いてない本堂には来なかったのですけれど。

それからいろいろなことがあり、「いったいいつまで泣いてるのか。これから何年生きるか知らんけど、一生泣いてるのか。あの時泣いてたけど今は平気だというのではいかん、今から平気になろう」と考えました。父が86歳でその1年前に母が亡くなっておりましたから相当気力もなにもない。それから家内のほうは40歳過ぎた頃から間接リュウマチを患いまして何回も手術をして、病気になってから20年になります。結局、遺体を焼いたら骨が鉛筆くらいの細さになっていました。骨をやられますから。娘は28歳、まだ結婚はしていませんで、そうすると4人の中で一応一人前なのは自分だけだ、その自分が残ったのは寺なり門徒なりをしっかりやっていけということだ、と思いました。

実はほとんど涙を見せませんでした。ただお通夜の晩だけは話をしてると胸が詰まってきまして1回だけ泣いたのですが、人前で泣きましたのはそれ1回だけ。後はとにかくがんばるという気で。たくさんの方々のお見舞いがあり、そのおかげでなんとか復興もしました。いろいろなお見舞いを頂きまして、例えば、ほかほかカイロをたくさん、最後のひと袋は去年の12月に使うくらいです。それくらいたくさんの身に余るお見舞いを頂いたおかげで今日まで生かして頂いております。

 

要するに、私たちはいつも死と隣り合わせの生活をしており、どんなことが起きるかわからないのです。岩村先生もすぐに行かれました今度の東日本の震災も、想定外という言葉が使われますが、想定外のことがいっぱいあります。人間がわからんことがいっぱいあって、わからんから想定外と言ってるのですが、それが大自然のルールかもしれない。例えばインドというのはアジアの南側に三角形に飛び出してますが、あれは何千万年か前はあそこになくはるか西南のアフリカのほうにあって、それが毎年何センチかずつ動いていってアジアの南側と衝突しまして、衝突のショックで盛り上がったのがヒマラヤ山脈。それは化石とか、地質学でわかるらしい。現在のインドは日本の9倍あります。そのインドが動くのですから、世界中どんなことがあっても不思議はありません。ちょうど昨日くらいにアメリカで、今日世界が終わるという風説が流れておったのが、今日になって終わりじゃないとわかって大勢騒いでる、とニュースで見ましたが、そういうこともあり得ます。いつも死と隣り合わせに生きておる、ということです。そのことを知らない、そのことを考えないというのは人間の傲慢です。

昔は汽車が駅に停まると窓を開けて、汽車弁を買ったりみかんの袋を買ったりすると、前の人に必ず「ひとついかがですか」と。自分だけが食べない。それをきっかけに話をしたりします。この2年間、東京の築地本願寺の責任者として勤めておりまして、2年間に106回往復したのですが、その間に列車の中で知り合ったとか言葉を交わしたとか1回もない。それが今の世の中です。お互いが行きずりで知らない者同士。そういうふうなことが日本全体に広がってるのでしょうか。去年から一昨年、無縁社会という言葉が流行り出しました。これほど仏教に反する言葉はないのです。2500年ほど前ですが、お釈迦様が悟りを開かれました。どういう悟りを開かれたといいますと、あらゆるものは因縁によって生まれ因縁によって滅びる、因縁があるから往くし因縁があるから還る、全部因縁だと。我々も両親を因縁として生まれてきた。いろいろなものを食べて、ほかのものの命を食べて生きてる。それから大勢の方々から導かれて、言葉もいろいろなことも覚えた。今皆さんがお召しになってるもの、誰が作ったか正確にご存知でしょうか。誰が実際織物を織ったかわからない。自分の知らない人々のおかげで生活してる。むしろ知らない人のほうが多いわけです。仏教ではそういう縁によって生まれ、生きる。またしかし縁によって、例えば病気というものを縁にして、事故を縁にして、あるいは年齢を縁に私たちは死んでいく。

あるお経にこういう例えがあります。インドの神話に帝釈天という神様がおりますが、帝釈天の御殿の上に大きな網が掛かっており、その網の目のひとつひとつに宝玉が下がってある。何十万あるかわかりませんが、無数に下がってる。そのひとつひとつの宝玉が光を放つ。そのひとつの光がほかの何十万かの玉全部に映ずるだろう。ところが、そのひとつの玉にも何十万かの光全部が映ずる。お互いに照らしあっている。それほど因縁は深いということで、それを重重無尽、重なって重なって尽きることがない重重無尽の因縁といいます。因縁というものを大切に、因縁によって結ばれたひとりひとりが仲良く生きる。基本になるのは親子でしょうし、夫婦でしょうし、兄弟でしょうし。これは仏教だけではなく、例えば中国というのは現実的な哲学ですね。例えば儒教なんかに親親之殺といいまして、身近なものほど大切にします。例えば夫婦とか親子とか、そういうふうなものほど大切に、それがほかまで及んでいくのですが。だからひとりが偉くなると親戚皆が偉くなります。とにかく因縁というものを大切にします。

ただし、皆が因縁を分け合う、因縁によって結ばれているのですが、仏教においては自業自得という言葉があります。善を行ったら善の報いを受け、悪を行ったら悪の報いを受けると。あながち仏教だけではなく、例えば目には目をという言葉があります。とにかく自分のしたことの報いは自分にある。善因善果、悪因悪果というのですが。
ところがあながちそうでない場合もあります。例えば仏教に回向という言葉があります。回し向ける。お経をあげて回向してもらうというのはそのごく一部で、自業自得で自分が行った結果を自分が受けるのではなく、自分は何もしていないのに良い結果だけ受ける、あるいは悪い結果だけ受けるという場合があります。

例えば、そのことを痛切に感じましたのは、インドにおった頃です。カルカッタのチョーリンギーなどの大通り、その歩道にずらーっと人が寝てる。家がない。だいたい白い布を頭から被って、まぐろを転がしたようで、何万、何十万寝てるかわからない。そのなかに若いお母さんも、赤ちゃんも子供もおります。そうやって路面でしか生活できない、明日何が食べられるかわからない、お母さんの乳が出るか出ないかもわからない、そういうふうな境涯で生まれ育つ子供がおります。ところが日本では立派な病院で至れり尽くせりの手当てを受けて、赤ちゃんが生まれ育って、この頃の乳児の死亡率は非常に少ないと思います。ところが私のところの寺の過去帳、明治40年くらいのを見ますと、100人死ぬとしたら90人くらいが赤ちゃんです。それくらい乳児の死亡率が高い。それからもちろんお母さんも。それほど大変だったわけです。

赤ちゃんがむくむく育つのはどうしてかというと、お父さんお母さんのおかげであるし、周りの人のおかげです。お父さんお母さんが自分の幸せを赤ちゃんに向ける、赤ちゃんに食べさして赤ちゃんに着さして、そういうふうに幸せをほかに回し向ける、それが回向です。私たちは神様なり仏様なりの回向を受けて生きている、そういうことをいつも考えなければいけないわけです。

 

仏教というのは元々、お釈迦さんが若いときに年寄りを見て病人を見てお葬式に出合って、人間の悲しみというものを痛切に感じて、その悲しみを超越するにはどうしたらいいか、ことに死の悲しみをどうしたら超越できるか、その道を見つけるために29歳で出家してやがて悟りを開いたわけです。その結果80歳で旅の途中で亡くなって、そのときに何と言われたかというと、あらゆるものは皆、生あるものは必ず死ぬ、とにかく元気な間は努め励め 真面目に生きろ、と仰っいました。

お釈迦様より4・500年の後にインドに竜樹という坊さんが出ました。大乗仏教の坊さんで、さかんに小乗仏教ではだめだと言ってました。あるとき小乗仏教の坊さんと話をして、「自分は生きたほうがいいと思うか、死んだほうがいいと思うか」と訊いたら、「死んでくれたほうがいい」と言う。「そうか」と言って立ち上がって自分の部屋に入ったきり出てこないので、弟子がおかしいと思って何日かたって部屋を開けたら、死んで蝉脱、蝉の抜け殻のようになっておりました。結局それほどまで生と死を超越する境地までいったわけです。なかなか私たちには難しいですが。

私いつも思いますのは、この世は一種の道場だと。打たれても打たれても跳ね返す、逆にこっちから打ち込んでいく、そういうふうな修練をするのがこの世だと。それからもうひとつ、娑婆という言葉がありますが、これはインドのサハーという言葉からきています。サハーとは耐え忍ぶと書きます。世の中いろいろなことがあるが、それを耐え忍んで克服する、それがサハーという世界です。あるいはそのために、自分のために努力するのも大事だけども、ほかの人のために尽くし、共々に幸せの道を探っていく、という教えも説かれております。

 

この度の東日本の大災害、阪神淡路の5倍くらいだろうといいます。地震だけでなく、あちらは津波がある。原発がある。寒さがある。あのときは大阪などはけろっとしていましたから物質的にも困らなかったが、それも困っています。項目だけ言っても5倍くらいです。これから私たちの出来るだけのことをして、かつてお世話になったわけですから、ご恩を返さなければと思うわけです。それから外国からもいろいろ援助がありますが、テレビを見ておりまして一番嬉しかったのは、パキスタンのおじさんが「日本人は何でも出来る」というその一言です。何でも出来るのだからもちろん復興も出来る。もっと立派に生きていくことも出来る。その一言が印象に残っております。難しいですけど、その難しさを跳ね返すのが道場だと、そういうふうに思って頂いたらと思います。

 

(質疑応答)
Q:「人生で苦労している人ほどしっかり修行しているのでしょうか。例えば身体障碍者の方とか。」
A:「世の中、娑婆といいますが、娑婆の世界というのは善因善果とすっといかない。同じ子供だけど非常に幸せに育つ子もいるし、大変な子もいる。例えばこの度の震災です。東日本だけ選んで爆弾を落とされたようなものです。例えば身体障碍者とか、そういう方もです。私の場合、家族3人とも死んでしまった。たぶん私は前世においてよほど悪いことをしたんでしょう。その報いが私ではなく家族に向かった。いつもそういうふうに考えております。善因善果とストレートにその人に行くのではなくて方角を変えて行く。親の善が子供に行ったりです。あるいは東京で働いていて、東京では一銭ももらわないでも、家のほうにちゃんと振込みされてる。場所が変わる場合もあるだろうし。身体障碍者の方々にもそのつもりで接したいと思います。」

Q:「能力があるほど偉い人間でしょうか。」
A:「一概には言えないと思います。偉いというのはいくつか種類があります。例えば私は本願寺派の総長をしておりましたし、去年まで全日本仏教会の理事長をしておりました。肩書きから言うと非常に偉いわけです。学問からいうとどうかというと、私の持ってます書物だけでも、5回も10回も生まれ変わらないと読みきれない。つまり学問的には劣ってると思います。全日本仏教会の理事長と学問的な能力とは違う。それからお経の先生が袈裟を着けて堂々とお経をあげるのを見てますと、その人のあげるお経が非常にありがたくて非常に立派に見える。ところが、くしゃくしゃの衣のおじいさんがお経をあげることもある。一所懸命に手を合わせる。宗教的にはその人が一番偉いでしょう。必ずしも能力とその人の温かさは違う。ですから能力があるから偉いと単純に思うべきではありません。
私の知ってるお寺の門徒さんですが、ある奥さんが、まだ若い50歳か60歳かと思いますが植物状態で、しかし寝たままの奥さんですが、家族にとってはものすごく大事な存在なんです。ものすごくよくできる秀才の奥さんより大事かもしれない。だから我々の価値判断というのはなかなか難しいです。能力によってその人が幸せになったりならなかったりがあると思いますが、幸せであってもその人が立派かどうかはまた別だと思います。
例えば私のところの門徒で、3人いた息子さんが戦争中に3人とも戦死したおばあさんがおりました。だけどもその人はお参りするのを非常に喜んで、私もやがて息子が行ってるような仏さんの世界へ行かしてもらえるんだ、と言ってお参りしておりました。何を能力と考えるのかで違うのではないかと思います。」

Q:「この世は道場ということですが、親鸞上人の念仏についてはどうですか。」
A:「親鸞上人は自分が修行してると思ってないんです。例えば有名な言葉に「親鸞は弟子一人も持たず候」という言葉があります。実際はたくさん弟子がおったのですが、親鸞上人はそれを弟子と思わずに御同行、御同朋と申しまして、皆仲間だと、そういう捉え方をしておられた。法然上人は1日に6万念念仏した。親鸞上人はそうじゃなくて、思い出したときに念仏したらよろしいという態度なんです。しかし親鸞上人のほうが仏教者としてより深い境地に達しておられたと思うんです。親鸞上人は、あれほど勉強した人はいないと思いますが、それでも自分は怠け者だと思ってた。煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、あらゆることが火が燃えている家のようなものだと自分自身はいつもそういうふうに思ってた。小慈小悲もなき身、自分には慈悲の心なんてこれっぽっちもない、偉そうに仏さんのことを言うのはもったいないことだけども、やっぱり言わざるを得ないというふうに、実際はポジティブだけれどもネガティブに自分を考える。それが本当の念仏者だと思うんです。」

Q:「釈迦はどのようにして苦しみを超越されたのでしょうか。」
A:「結局、あらゆるものは縁によって生まれ縁によって滅びる、その事実を率直に受け入れるということです。それによって死というものを超越した。竜樹さんにしても「あんたおらんほうがいい」と言われてそのまま死んだ。それほど生と死とにこだわらない。仏教では執着というものが一番、迷い苦しみの元だといいます。それは自分に対する執着、自分の物に対する執着。それを除かなければならない。一番は自分の命に対する執着なんでしょうけれど。死んでも仏の世界に生まれる、だから決してこの世だけに執着せずに命があるだけ立派に生きていきなさいというようなことです。心の迷いというのは執着だという考え方。迷いがとれないけれど、迷いを持ったまま死んで行くかもしれないけれども、そういうふうな私たちを仏様がちゃんと守って下さる。命はなくなるけれど必ず仏の国へ連れて行って下さる。我々はそういうふうにいうんです。執着はないほうが良いんですけど、なくならないでしょう。それが我々、凡夫というんです。」

Q:「無縁社会といわれる世の中ですが、Eメールを使えば地球の裏側とも繋がることが出来ます。その違いは何でしょうか。」
A:「人間のコミュニケーションの手段で一番の基本は声だと思うんです。文章じゃない。声というのはものすごく大事だと思ったことがあります。私は生まれたときから乳母の乳を飲んでおりました。笑われるんですが、幼稚園に行ってもまだ乳母の乳を飲んでた。乳母は戦争のとき、アメリカの戦闘機の機銃掃射を受けたんです。それで首を貫いた。非常に幸いなことに死ななかったんです。戦後になって、奈良県の田舎のほうなんですけれど、見舞いに行きました。そのとき何が悲しかったというと、乳母の声が違うのです。ちょうど動物がにおいで親を嗅ぎ分けるように、人間の赤ちゃんは親の声を知ってると思います。声というのはコミュニケーションの一番の基本になる。それを声の変わりに作り出したのが文章。よく夫婦でも会話がないといいます。ところがメールでやりとりしている。もっと極端になると悪いことして捕まった男の子がいて、白状しろと言っても白状しない。ところがその男の子にメールをやったらメールで白状した。そんな話を聞いたことがあります。そうでなくまず声を掛ける。赤ちゃんも母親の声を知ってますし。私が悲しかったのは乳母の声が乳母の声でなくなったいて。
それから今は挨拶しなくなりました。挨拶というのは本来肩を叩き合うことらしい。そこまでしなくてもとにかく「こんにちは」と。昔「どちらへ」「どちらから」という挨拶をしました。そうすることによって道を間違わない。ヒマラヤを歩いてるときは1日のうちにひとりかふたりしか会わないこともあります。そのとき必ず「こんにちは」「どこへ」「どこから」とお互いに言う。そしたら今から行こうとしてる所から来たの、ということがわかりました。だから声を掛け合うことは知恵でした。それが今は地図さえ持ってたら行けると思われてます。それから昔インドの修行者は、どこから来たどこへ行く、あなたの先生は何という先生でどういう教えなのかということを修行者同士がお互いに話し合いました。それによって仏教へ入った人もいます。「へえ、そんな教えを説くの、それは自分は敵わん」と言って逃げた人もおります。とにかく声を掛け合うというのはものすごく大事です。このごろは食事のときでもテレビを見ていて、お互いが喋ることがなくなった。あれも食事の時にはテレビを見ずに食べたほうが良いんじゃないかと思います。とにかく声を掛け合う。ついでに申し上げますと昔は復唱、復命という言葉がありました。復唱というのは例えば「東京へ行ってこい」と言われたら「東京へ行って参ります」と言う。行ったら「東京へ行って参りました」という返事をする。その返事が今ないのです。1回より2回、2回より3回いろんなことをお互いが話し合うということが心が通じ合うということではないでしょうか。大変おこがましいことですが。」

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