第8回目 「震災で弟を失って歌い続ける」 森 祐理 (元NHK「ゆかいなコンサート」歌のお姉さん)

講座内容を紹介した神戸新聞の記事です。
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森 祐理
以下は講座の内容を口述筆記したものです。

2011/07/25

「震災で弟を失って歌い続ける」

森 祐理

皆さんこんにちは、森祐里です。今日は死について考える心の講座。こんなふうに皆様と特別な時間を過ごせることを嬉しく思っております。色々な講師陣のお名前を拝見しまして、弁護士の先生とかお医者様とか、偉い大学の先生とか、私はそういうような肩書きのある者ではありません。クリスチャン歌手として国内外で歌を歌わせて頂き、歌を通して神様の愛を届ける。そんな働きをしております。
ですから全然難しいことは言えないので、もう本当に気楽に聞いて頂ければと思いますし、私自身、歩んできたその体験をお話させて頂きたいと思っております。岩村先生にこんなでよろしいんですか、私でよろしいんですかと言ったらそのまま話して下さいと仰って下さったのでお言葉に甘えて安心しながらお話させて頂きたいと思います。また私自身はクリスチャンですので、聖書の御言葉とか、神様は…という、そんな言葉がつい自然に出て参りますけれども、どうぞクリスチャンの話していることとして受け取って頂ければと思います。

最初に死というものと向き合う。それは普通でしたらおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったというのがすごく自然ですよね。またペットを亡くしたというのも自然だと思うんですけれども、私の人生で最初に死と向き合ったのが阪神大震災です。日本中世界中、色々な所に行きますけれども、この場所、神戸で歌を歌う、話をするというのは私にとっては全然違うんです。特別な想いがあります。なぜなら、ここは弟が旅立った場所です。ここで弟が22年間生きた、その生を閉じて天に帰っていった場所であるからです。阪神淡路大震災。1995年1月17日。この神戸の地で起こったこと、一生涯忘れません。人生にとって戦前と戦後くらい大きな大きな変化がありました。

ちょっとだけその経緯をお話しますと、私の弟は神戸大学の4年生でした。法学部に所属していまして、今、復興構想会議の五百籏頭真先生という方、新聞などでお名前よく見られると思います。防衛大学の学長さんですけれども、当時は神戸大学の教授でらっしゃったんです。弟は「五百籏頭の親父、親父」とものすごく慕ってまして、五百籏頭先生も「森君、森君」と、かわいがってもらったんです。それで弟も「親父、これがわからん」と夜中の12時でも先生のお家に怒鳴り込んで行って「親父、この政治学のこれはどういう意味や」とやる、そんな熱心な生徒だったんです。
「ジャーナリストになってペン一本で世界を変えるぞ、姉ちゃん見ててな」と私に偉そうなことを言ってました。でも本当に仲良しだったんです。小さい頃から「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とお姉ちゃん子で、私がバレエのレッスンに行ったらついてきて「お姉ちゃんすごいな」といつも褒めてくれるような、そんな弟でした。

弟は東灘区の本山中町で小さな2階建ての下宿の1階に住んでいました。1月16日は大阪の実家に帰っていたんですけれども、卒業論文を仕上げないといけないから、と言って16日の夜遅くに帰ったんですね。それで家の下敷きになって亡くなりました。
何百回話したかわからないくらいこの話をしても、やっぱり死は時間が経ったらとかそういう問題じゃない。何回話しても心のどこかがちくっとするように痛みます。なぜ、と思います。でも、弟の死がなければ今私は歌っていない。立っていない。そう思ったら意味があるのだと思います。

私は東京にずっと住んでおりまして、震度1くらいで揺れました。目が覚めたんですけどまさかそんなことが起こっているとは思いませんでした。翌日、大阪の堺市に住んでいる父が弟を探しに行きました。車で探しに行ったんですけれども、あまりにも大変だったので一旦引き返してきたと父は言いました。引き返して電車に乗り換えて。西宮北口までは堺市から電車が通じていたそうです。そこから東灘区まで3時間くらい歩いたと父は言っていました。

下宿に着いたときにはもうめちゃくちゃだったそうです。ちょうど隣に大家さんの家があって「大家さんどうですか」と言ったら、「たぶん森君はバイクがないから逃げたんじゃないか、大丈夫ですよ森君のことだから」と言って下さったそうです。でも父は、やっぱり親ってすごいですね、何とも胸騒ぎがした。悪い予感がした。それで自分の手で、2階が地面に乗っていたそうなので2階の窓をこじ開けて入ったそうです。手で掘ったらすぐ中に弟の足が手に当たりまして。中にいる、埋まってるんだ。もうびっくりして出てきて「すいません皆さん中でまだ埋まってます、助けて下さい」と父は叫んで。大家さんがびっくりして出てきて下さって、大家さんの息子さん、レスキュー隊が随分遅かったんですけれども最終的には来て下さって、掘って掘って出したんですが出てきたときには冷たくなっていました。

「火事だ」と声がして、あちこち火が上がってたので父は弟の体を少しだけ背負って。父は小さい体ですし、弟は背が高い立派な体格でしたから重かったと思います。少しだけ背負って後はレスキュー隊の方にお願いして遺体安置所まで運んだと言っていました。
19日に遺体安置所から大阪堺市の我が家まで弟の遺体が運ばれてきました。その時私すぐ東京から飛んで。まだ飛行機が飛んでたんです。帰ってくることができて、弟の遺体が運ばれてくるのを見ました。家に帰ってきたら母が倒れてたんです。
「祐里、今お父さんから電話があって、もうすぐわたるが到着するから迎えてやって。」
どうやって迎えていいかわからないので玄関に座ってたんです。そしたらバタンと音がして神戸から車が着いて、弟が毛布とか汚い布でぐるぐる巻きになって車から4人の男の人に担がれて降ろされました。それを見た瞬間はエジプトのミイラみたいな、丸太ん棒みたいなものが出てきたような気がしたんです。その丸太ん棒がゴオンと私の心を突いた。心に穴が開いた。そういう感覚がしました。この穴はどうやったら閉じるんだろう。そう思ったんです。

亡くなった方が多かったのでお葬式場がなかなか取れなくて結局5日間くらいドライアイスに固められて弟は家に居たんですけれども、親戚のおばさんたちが皆集まって、ショック受けるから祐里ちゃんは絶対にわたる君を見ちゃいけない、と私は会わせてもらえなかったんです。でもやっぱり次の日がお葬式だというときには会いたい、仲良しでしたからどうしても会いたいと思って。それで奥の部屋に一人で行って顔の白い布を取ったんです。顔に柱が落ちましたからダメージはありましたけれども、口が綺麗に残っていて。
私の心の耳にです、心の耳になんですけれども、聞こえたんです。
「お姉ちゃん、おれ、死んでないよ。おれ、もっといい所行ったから。心配すんな。」

弟は小さい頃から私と一緒に教会学校に行ってました。教会は大人が行くんですけれども、子供たちが行くCSといわれる日曜学校に一緒に行ってました。単純にイエス様を信じていました。死んだら天国に行くんだよね。小さい頃から言っていました。そうだ、また会えるんだ。永遠の別れじゃない。尊敬するお姉ちゃんやしな、といつもいつも言ってくれてた、そんなときに天国でまた会って、「何やお姉ちゃん泣いてばっかりで」じゃなくて、「すごいな、さすが」って言ってもらいたい。弟の顔を見た瞬間に思いました。
「もう一回、弟に会ったときに褒めて貰えるようにお姉ちゃんがんばるね。」
私は弟の顔にそう語りかけたのを覚えています。それがきっかけです。それがきっかけで私は阪神の瓦礫の中に出て歌うようになったんです。弟のその死がなければ、そして「お姉ちゃんおれ死んでないよ」というあの言葉がなければ神戸の瓦礫の中に出て行くことはなかった。何かに突き動かされるように歌い出しました。

一番最初は鷹取の公園でおうどんの炊き出しをしていた寒いときで皆さん布団とか被ってずっとおうどん一杯に何時間も並んでたんです。その列の前で、皆さんが寒いから気を紛らすために歌って下さいと言われたんです。でもどうしようか、ものすごく勇気が要りました。皆寒さで震えて待ってるときに歌い出していいのか。お友達が助けて下さって自家発電のマイクとキーボードを用意してくれて一緒に行ったんです。
「皆さん大変ですね。私も弟を失いました。でも下ばかり向いていたら駄目だからもう一回がんばっていきたいと思います。せめて少しでも皆さんの待つ間の気が紛れる、それだけでもいいから歌を歌います。聴いて下さい。」
と言って歌い出したんです。皆さんぽかんとした顔してらっしゃいましたけれども、歌い終わったらわあっと拍手してくれて、
「お姉ちゃん、もう一曲やもう一曲や。」
「歌っていいんですか。」と言ったら
「当たり前や、おうどんあと30分くらい並ぶけどお腹いっぱいになった気したわ。もう一曲。」
それから何曲も何曲もアンコールで。歌が必要なんだ。仮設住宅とか瓦礫の中とかずっと回って歌いました。おばあさんが言いました。
「あんた、おおきに。見てみ。お弁当もおにぎりも水もサンドイッチも山ほど積んである。何も食べる気にならんかった。お腹すかんかった。今日ようやくお腹すいてきたわ、おおきに。」

どんなに食糧があっても水があっても、それを取って自分の口に持っていって噛んでごくんと呑み込む、食べようとする力、生きるエネルギーが人間には必要なんだ。心の救援物資が必要なんだ。それを届けて行きたい。弟の死を通して私に与えられた第2の使命がそれなんです。
そこから色々な所で歌うようになりました。何だか地震が起きたりしたら居ても立ってもいられなくなって、飛んでいって歌うようになりました。台湾の大震災、釧路の震災、スマトラ沖の津波、鳥取西部地震とか新潟中越沖地震、能登半島の地震、それから四川省にも行きました。何だか本当に弟の命が私の中に生きてることをすごく感じるようになったんです。死はただ死んで終わりでそれまでじゃないんだ。弟がますます生きているように私自身は感じるんです。

聖書の中に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」というそんな御言葉があります。弟の命という種が地に落ちたときは見えなくなって寂しかったですけれども、それが芽が出てだんだん枝になって花が咲いて、その実を今少しづつ見ることができることを感謝できるようになりました。

例えば四川省に行ったとき。2009年四川省で大地震がありましたね。たくさんの方が亡くなられた。そこへ行かせて頂いたんですけれども、中国のかなり奥地ですから色々な面で難しかったんです。特に過去の問題、戦争の問題とかで日本人に対する圧力もありました。私のコンサートの場所が二転三転、キャンセルになったりとか、盗聴されたりとか色々なことがあったんです。
でもコンサートは本当に喜んで下さったんです。瓦礫の中の大きな野外ステージにたくさんの中国の方が来て下さって一緒に中国語で歌って、大喜びして泣いて泣いて本当に心の一時になったんですね。終わった後に車椅子のおばあさんが私の所に来られました。中国語で通訳の人を介してですけれども、
「森祐里、謝謝。ありがとう。私は日本人が大嫌いだった。戦争で夫や家族を殺されて憎んでいた。でも、今回のこの大地震で私の家族が失われて家が失われて、もうずたずたな心になって本当に辛かったとき、一番大切な心の支援を持ってきてくれたのはあんたたち日本やった。色々な国から救援物資が送られてきたけど、こうやって心のこもった物資を送ってくれた、そして愛を歌ってくれたのは日本人のあんたや。私は間違っていた。私はこれからは日本人に感謝して生きるようにする。本当にありがとう。謝謝。」
おばあさん私を抱きしめてくれました。もう私感動して、手を握りながら何度も何度も謝謝、謝謝と言いました。

弟の死がなかったら四川省にも行ってなかった。こんなにも繋がったんだと私は感謝しました。聖書の別の御言葉で「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、後にわかるようになります。」そんな御言葉があります。私、阪神大震災の後にすぐその御言葉を読んだんです。後にわかるようになる。わかるようになるのかしらとそのときは本当に腹立たしい思いで読みましたけど。色々な被災地で歌う中で、これもそうだ、あれもそうだ、少しづつわかってくるようになりました。被災地だけじゃないんです。だんだんと心の救援物資を求めてる人のために、という小さな思いからの働きが本当に思いがけない所に繋がってきて、貧しい国々にも行くようになりました。カンボジアとかインドネシアとかモンゴルとか、その話をしだしたら1週間かかるくらい色々なエピソードがあります。そしてその貧しい国々は本当に皆死と向き合って生きていること、わかりました。

例えば、これはちょっとさらっとだけですけれども、モンゴルで会った子供たち、一緒になって歌った女の子。彼女はお父さんがアルコール中毒でした。モンゴルは冬、マイナス30度くらいになるんです。本当に寒かったです。バナナで釘が打てるという初めての体験をしました。そんな中で子供たちはマンホールチルドレン、ストリートチルドレンで生きてるんです。その内の一人のある女の子は、家から追い出されて弟ふたりと手を繋いでずっと一晩中彷徨っていたそうです。そしたら、明け方ふっと見たら右と左に手を繋いでた弟が凍って死んでた。ぞっとするような体験を彼女の口から聞きました。
カンボジアでは子供たちが10人か11人か、たくさんいるお母さんと出会いました。貧しい貧しい小屋のような場所です。
「お母さん、たくさんお子さんいらっしゃいますね。何人いらっしゃるんですか。」
「・・・。」
「あの、お子さん何人いらっしゃるんですか。」
「・・・。」
「祐里さん、このお母さんは学校に行ってなくて数を数えることができないんです。だから子供が何人いるかわかりません。」
私女性としてお腹を痛めて産んだ我が子の数がわからない。ちょっと理解できなかったです。だから子供が生まれて、生きている子と死んでいった子の数がわからない。そんなカンボジアの奥地の村々のお母さんたちと出会いました。

死は日常茶飯事でした。モンゴルの女の子もそうです。そんな例え話をしだしたら切りがないくらい、本当に死が日常の国がこの21世紀、2011年にもたくさんあるんだということを世界を回りながら学んで参りました。
もうひとつだけお話しますと、アフリカのエチオピアに行きました。エチオピアはアフリカのたくさんある国の中でも特に貧しい国のひとつといわれています。私は首都アジスアベバから車で2日間くらいずっと走った奥地の村に行ったんです。日本からタイのバンコクでトランジットして、そこから10時間くらいかけて行きました。私にとっては初めての体験でした。もう何もないというか、ペットボトルの水をランドクルーザーに詰め込んで、それでずっと走っていく。ペットボトルの水を飲み干したら死が待ってるというような、そんな旅は初めてでした。トイレももちろんありません。というかどこでもトイレで、360度見渡す大地の中でどうぞご自由にという感じです。傘持って行ってよかったと思いましたけど、本当に強くなって帰って参りましたけれども、そんな旅をさせて頂いたんです。ノミとかダニとか、もう殺虫剤を撒きながら寝袋で寝て、という旅をしました。

2日か3日かずっと走った奥の奥の村にもたくさんの方がいて。クリスチャンの村だったんです。サシガという村。その方たちが大喜びしてこの黄色い顔、日本人を迎えてくれました。本当に村中上げての大歓迎なんですね。村に小さな教会があって、その教会に入りきれないくらい。窓というかくりぬいた穴があって、その穴に皆上って日本人を見ようとして。屋根からも見て、喜んでくれました。一緒になって賛美を歌って、一緒になって踊って、かけがえのない時間を過ごしたんです。終わった後に子供たちがわあっと集まってきました。そして子供たちと一緒にまた歌いました。子供たちの小さな学校にも行かせて頂いて歌ったんです。そしたら子供たちが夢を語ってくれました。全部通訳を介してですけれども、
「僕は学校の先生になりたいんだ。」
そしたらまた別の子が、
「僕はパイロットになるんだ。どんなふうにしてかわからないけど、空をいっつも飛んでいく、そんな飛行機の運転手になりたいんだ。」
そしたらまた別の子が、
「僕はお医者さんになるんだ。この村にもあの村にもお医者さんはないけれども、遠くの遠くの村にいるお医者さんみたいな、そんな偉い人になって病気を治すんだ。」
「がんばって、皆すごいね。」
お話しました。そしたら通訳をしてくれていたスタッフが、
「祐里さん、違うんです。彼らは本当になりたいものが別にあるんです。」
「何ですか。」
「何だと思いますか。」逆に質問されました。
皆さん、サシガの子供たちが一番なりたい夢って何だと思われますか。(聴衆に尋ねる)
「先生は、なんだと思われますか」
「大人になることです。」
「うーん、岩村先生、良くおわかりになりましたね」
私は結局わからなかったです。それで教えて下さいと言いました。そしたら通訳をしてくれた現地の方がこう答えられたんです。
「子供たちの夢は大人になりたい。大人になることなんです。」

大人になる。当たり前?いいえ、当たり前じゃないんです。この子たちは3時間も4時間もかけて水を汲みに行って泥水を汲んで帰ってきます。その水を飲まなければ、水がなければ生きていけません。でもその泥水でお腹を壊して、腸チフスとか、赤痢とかになって死んでいきます。エイズという病気があります。エイズだったら8歳までの命です。だいたい母体感染しているので、生まれたときにはもう病気を持って生まれてくる子供たち。5歳で半分が生きていたらいいくらいです。この子たちにとって大人になるということは大きな夢なんです。ショックでした。死が当たり前。一緒に遊んでいたお友達が次の日に死んでいく。死が身近である、死が当然のようなそんな社会。そんな世界で生きているのがこのエチオピア。私が行ったのは2006年でしたけれども、この現代のエチオピアの子供たちはそのように日々死と向き合いながら生きているんだということを知って心が痛くなりました。

私に何ができるか。マザーテレサは言いました。「愛の反対の言葉は憎しみではありません。それは、無関心です。」だから、知った以上少しでもこのこと伝えていきたい。あの阪神の体験から、弟の命の体験から私は色々な所で歌うようになり、そしてそれがエチオピアのサシガの子供たちにまで繋がった。その様子、今現在の状況を伝えていかなければ。それもひとつの弟の命の実なんだと思うようになったんです。今日、そのサシガの子供たちの写真があるので、その子供たちの写真を皆さんに見て頂きながら、子供たちの笑顔と共にお聴き下さればと思います。
マザーテレサの祈り「私をお使い下さい」。

主よ今日一日
貧しい人や病んでいる人々を
助けるために
私の手をお望みでしたら
今日私のこの手をお使い下さい

主よ今日一日
友を求める小さな人々を
訪れるために
私の足をお望みでしたら
今日私のこの足をお使い下さい

主よ今日一日
優しい言葉に飢えている人々と
語り合うために
私の声をお望みでしたら
今日私のこの声をお使い下さい

主よ今日一日
人というだけでどんな人々も
愛するために
私の心をお望みでしたら
今日私のこの心をお使い下さい
今日私のこの心をお使い下さい

皆さんこれ見えますか。すごく喜んでいる子供たち。もう手真っ黒で。だって水全然ない世界でしょう。トイレ行ったって手洗うこともないんですけれど。本当に皆で抱きついて喜んだこの子たち。正直に言います。今、半分以上死んでいます。よく飢饉があります。飢饉があったら軟らかい石や砂を食べていました。それでも、この子たちは精一杯生きて命を全うしたと、そして神はこの子たちひとりさえも忘れておられないと私は信じます。ひとりひとりの命が地球より大きい、地球より重いんだということ、私はこの地に行って教えられています。また弟の死がこの子たちとの出会いになったことも本当に感謝しています。ありがとうございます。
アフリカとかカンボジアとか四川とか、色々な所でのお話しだしたら切りがないんですけれども、そんな出会いと共に、やはりもうひとつ語らずにはいられないのが、今年3月11日の東日本大震災です。私が語らなくても、皆さん、日本人なら誰しもが心重くなるような、魂をえぐられるような、そんな思いになられたと思います。そして今尚、多くの方々が苦しんでおられます。少し語らせて頂きたいと思います。

私は台湾でのコンサートツアー中に今回の大震災を知ったんです。帰ってきてから居ても立ってもいられずに、すぐに被災地に飛びました。医薬品とかランドセルとか、たくさんの救援物資を持って、ちょうど4月の頭くらいですね、最初に被災地に入ったのは。私は被災地に行って、支援物資をお届けするというだけの思いでした。というのは、このようなアフリカとかの旅をきっかけに、日本国際飢餓対策機構という団体の親善大使をさせて頂いて、小さな働きを始めるようになったのです。貧しい世界の国々を支援しているNGOの団体です。その日本国際飢餓対策機構が逸早く被災地で支援物資の供給を始められるようになって、その関係で私も物資を持って現地に行かせて頂きました。

祐里さんとりあえず避難所に行って下さいということで、避難所に行ったんです。最初に行ったのが宮城県の八軒中学校。そこは30人くらいづつが、それぞれの教室で避難されていました。皆さん下向いて荷物山ほどで。臭いもすごかったですし。そこで座ってらっしゃったんです。
「祐里さん、何か歌って下さい。」
「そんな、ここで歌ったら失礼ですよ。」
「歌って下さい。」
大分押し問答、ひそひそやってたんですけれども押し切られまして、どうしていいかわからなかったですけど前に出たんです。
「皆さん、本当に大変でしたね。どんなふうに言っていいか言葉わかりませんけれども、私も阪神大震災という16年前の震災で弟を失って。被災者のひとりです。それでも皆に支えられて今日まで生きてくることできました。何もできませんけれども歌います。聴いて下さい。」歌い出したんです。

ひとりの小さな手
何もできないけど
それでもみんなの手と手を合わせれば
何かできる
何かできる

歌い出したらわあって皆顔上げて。まるで歌じゃなくて生き物みたいに皆さんの心に届いてるのがわかりました。歌手としてじゃなくて、同じ被災者として皆さんが私を受け入れてくれた。それを感じた瞬間でした。泣いて泣いて。そこからは避難所各教室全部回って歌いました。次の日も次の日も、石巻もどこに行っても。
「私らな、3週間全然お風呂入ってない。もう臭いでしょう。ごめんな。でも今日は歌で心洗ってもらった。ありがとう。」と言って下さいました。
もうたくさんの方が次の教室も次の教室も呼んで下さって、聴いて下さいました。ある方が言いました。
「津波でも泣かんかった。地震でも泣かんかった。今日歌聴いて初めて泣いた。」
極限の悲しみのときって人間涙出ないんですよね。泣いたら、涙っていうのは心のお薬ですから、本当にそれで慰めが始まる、癒しの回復が始まるんですけど、泣かなかったら人間の心は凍ってしまいます。その涙を出すことができる、そんな温かいお湯みたいな存在が歌なんだということを感じました。

駆け回って歌う中で、やっぱりここでも弟の死が意味を持って人の心に用いられている。本当に神様、人間森祐里だったら、弟とはいつも色々な話をして夢を語りあった仲間という感じでしたから寂しいです。弟が死んでよかったなんて口が裂けたってそれは言えません。それは言いたくない。でも、意味がある。悲しみは悲しみで終わらない。死は死で終わらないということ、何百回、何千回と体験させて頂いています。今、被災地をあちこちで歌わせて頂いて、また今度福島へ行く予定ですけれども、その全部が繋がっているんだということ、本当に思わされています。
家族を失った。旦那さんが家と一緒に流された。今日避難所で娘の遺体を見つけた。ある人は遺体収容所でようやく探し回った旦那さんの遺体を見つけたけど嬉しくなかったとか、色々な生々しい声を聞き続けました。私には何も、すべてをひっくるめて抱きしめて泣くしかできませんでしたけれど、でもそれができることを神様に感謝しています。

そんな私の小さな小さな働きを関西テレビが取材して下さいました。そして5分ほどなんですけれども、番組として特集で取り上げて下さったんです。直接死とは関係ないかもしれませんけれども、本当に死と命と向き合いながら必死で生きておられる被災者の方々の様子をご覧頂きたいと思いまして用意して参りました。今暫しご覧頂ければと思います。ニュースアンカー。このDVDを作って下さった関西テレビのディレクターの方は神戸大学で弟の後輩だったんです。関西テレビというのは放送エリアが違うから東北というのは取材が許されないんですけれども、東京の同系列のテレビ局に掛け合って、森先輩とどうしても繋がっていきたいんですと、わざわざ大阪から東北まで来て一緒に行って取材して下さった。そんな関係があるんです。

(ビデオ)

ああやって被災地の避難所でずっと歌って。私、学校から出たんです。そしたら「祐里さん」「祐里さん」と声が聞こえるんですよ。声が聞こえるので何かなと思って振り向いたら学校の校舎の窓、窓、窓から皆が手を振ってくれてるんです。「祐里さんありがとう、ありがとう」って。「がんばるからな、がんばれよ」って。家を失った方々ですよ。家族を失って仕事を失った方々が「がんばれよ」と人を励ますことができる。人間ってすごいな。本当に強いんだ。美しいんだ。私その時に思いました。被災地を回って、悲しい話だけじゃなくて、心の美しい、勇気づけられる、そんなたくさんの出会い、体験をさせて頂いていること、命と向き合えることを感謝しています。

私は死は天の故郷に帰ることなんだろうとそんなふうに思っています。でも天の故郷に帰るまで精一杯生きていかなければいけない。その故郷に帰るまでの歩み、道程が人生というものなのかなと、私のような若輩者が言う資格はございませんけれども、小さい者なりにそのように考えさせられています。
今日は歌うつもりでなかったんですけれども、神戸の「しあわせ運べるように」という歌い続けている歌。どこでもは歌わないんですけれども、ここは神戸だと思ったら何とも歌いたくなりました。皆さんご存知ですか、「しあわせ運べるように」。今日もう一度この場所で歌わせて頂きたいと思います。神戸の歌を今は日本の歌として、そして東北の歌として歌わせて頂いています。

地震にも負けない
強い心をもって
亡くなった方々のぶんも
毎日を大切に生きてゆこう
傷ついた神戸を
元の姿にもどそう
支え合う心と明日への
希望を胸に
響きわたれぼくたちの歌
生まれ変わる神戸のまちに
届けたいわたしたちの歌
しあわせ運べるように

地震にも負けない
強い絆をつくり
亡くなった方々のぶんも
毎日を大切に生きてゆこう
傷ついた日本を
元の姿にもどそう
やさしい春の光のような
未来を夢み
響きわたれ僕たちの歌
生まれ変わる日本のまちに
届けたいわたしたちの歌
しあわせ運べるように

響きわたれぼくたちの歌
生まれ変わる日本のまちに
届けたい私たちの歌
しあわせ運べるように
しあわせ運べるように

しあわせ運べるように歌っていきたい。それが私の使命です。最後にまとめをさせて頂きたいと思います。さっきも言いましたように、私は死とは天の故郷、本当の故郷に帰ることだと信じています。
行く先がわからないと人間は心配になります。今日この神戸新聞社会館に来るのも全然わからなくて、ミント神戸の中をぐるぐる回って、もしかしたら私全然ちがう駅に来ちゃったのかしら、とすごい不安になりまして。場所が分かってないとすごい不安ですよね。でも一度わかったらすぐ「ああ、行ったことあるわ」って本当に気が楽になります。安心です。
死も同じだと思います。行く先がわからないから怖い、不安だとそのように感じると思うんです。天に愛する人たちが待つ。そんな故郷へ帰るんだと思ったら死が恐怖でなくなるように思います。

私はマザーテレサが大好きですので今日のためにマザーテレサの色々なサイトを見ましたら、マザーテレサが死についてたくさんのコメント、言葉を残しておられました。
こんなふうに書いていました。
「死は悲しいことではありません。悲しむべき唯ひとつのことは自分が聖なるものになっていないということだけです。」
マザーテレサのように聖なる人がそんなふうに書いておられました。
またこんなふうにも仰っています。
「この地上の人生は終わりではありません。終わりだと信じている人は死を恐れます。でも死が神の家に帰ることだと正しく説明をすれば死を恐れることなどなくなるのです。」
また、「私たちは生きたように死ぬのです。」「死とは人生の続きであり、人生を完成させるだけでなく体をお返しするに過ぎない。でも心と魂は永遠に生き続ける。」そんなふうにも語っておられました。
そんなマザーテレサの一言一言を読むうちに私自身も希望が湧いてきました。やっぱり人間ですから、息が止まるってどんなに苦しいんだろうとか、できれば病気じゃなくって死にたいわとか、本当に子供っぽいことを思います。でも読んでるうちに、素晴しい所に帰るんだという喜びが多く湧いてきました。
また死はひとつの恵みでもあると思います。永遠って考えてみましたらかなりきついことなんだろうと思います。

例えば私はアロマオイルマッサージが大好きなんです。本当に気持ちいい。とにかく旅から旅、一年中3分の2は世界を回ってます。ほとんどホテル暮らしで、くたくたになるんですね。エチオピアだ、カンボジアだ、と帰ってきたら身も心もぐたぐたです。マッサージに行ったらすごく気持ちよくて、永遠に続いてほしい、永遠にやってほしいと思うんですけれども、実際に永遠にマッサージが続いたら大変なことです。もう結構です、となると思います。ものすごくおいしいお食事もずっと永遠に食べ続けるのは大変です。どんなに素晴らしい愛する人とでもずっと永遠にというのはしんどいことです。やっぱり終わりがあるから今の瞬間を大切に感じられる。この講座は4時に始まって5時半に終わる。そう皆さん希望があるから聴いておられます。人間、お終いがあるというのは希望です。恵みだと。そんなふうに思います。

人生も同じだと思いました。魔法使いのおばあさんのように、永遠に生き続ける、そんなお薬を飲んで生き続けたとしても苦しみだと思います。人生で死というものを思うとき、今日生きていられた、今日私は精一杯生きることができた、喜ぶことができるんだとも思います。そんな意味で、神が死というものを置いたということは、私たちにとっては日々を大切に生きる、本当に特別な恵みであると私自身思わされております。そしてそれだけでなく、いつの日か来るその死という終わりが、更に新しい御国、私たちに命を与えて下さった神という存在のおられる天国へ行く扉だと考えるときにそれはさらなる希望へと繋がるように思います。

私はできれば長生きをして、できればたくさんたくさん歌い続けたい、天国に行く日まで歌い続けていきたいというのが私の願いなんです。紅白に出たいとか、すごいホールで歌いたいとかそんなことじゃなく、天国に行く日まで歌う。途中で挫折せずに歌い続ける。それが私の願いなんです。人生の私の夢です。だからできるだけ長く歌いたいと思います。
でも、いつの日か天国で弟と会って、手を繋いで
「わたる、ありがとう。あんたの命のおかげで、お姉ちゃんこんなに歌うことができた。こんなに多くの人と出会うことができた。こんなに大切なことを教えてもらうことができた。ありがとう。」
そう言える日を心から待ち望んでいます。

ピリピの3章20節の聖書の佳詞。「私たちの国籍は天にあります」。大好きな御言葉です。天の故郷を見上げながら歩いていきたいと思います。
「志をはたしていつの日にか帰らん」。被災地でも歌い続けた歌「故郷」を作曲した岡野貞一もクリスチャンでした。彼もまた天の故郷を見上げて生きたひとりです。私の講演の最後の締め括りとして皆様と共に故郷を歌ってこの講座を閉じたいと思います。

兎追いしかの山
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷

如何にいます父母
恙なしや友がき
雨に風につけても
思い出づる故郷

志をはたして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷
忘れがたき故郷

 

(質疑応答)
ありがとうございました。ひとつだけ質問。中国では中国語で歌われたと聞きましたけれども、アフリカではメロディーや言葉はどうなされたんですか。言葉が通じないとコミュニケーションが難しいと思うんですが。

すごくいい質問ありがとうございます。色々な国へ行くと、極力その国の言葉で歌うようにしてます。3日前に韓国から帰ってきましたけど全部韓国語で。明後日から台湾ですけど台湾語。来月ブラジルへ行くとポルトガル語。モンゴルではモンゴル語、カンボジアもインドネシアも全部そうやって準備して行くようにしてるんですけれどもね、さすがにアフリカのエチオピアのアムハラ語だけはさっぱりわからなくて。しょうがないので私アメイジング・グレイスを歌ったんです。英語で。そしたらエチオピアの方たちっていうのはすぐに一緒に歌い出すんです。何も言わなくても大きな声で。
エチオピアというのはアフリカの国々の中でも数少ない植民地支配を受けていない国のひとつで、独自の文化をずっと継承しています。何とも言えない日本の演歌に似たメロディーがエチオピア古来の伝統音楽だそうなんですね。
それで私が歌いましたら皆さんが歌いだす。私の英語も西洋音楽も全然無視してわあって歌いだすので私ももうどうでもいいやと思ってね。日本語でわあっと歌い出したらますます皆さんアムハラ語で歌い出して。まあ見事な不協和音でしたけれどもね、それでも言葉も違うメロディーも違うそれでも皆さん大喜びで歌ってらっしゃったんです。私そのとき感動したんです。ああ、何語とか何人とか綺麗な音楽とかそんなじゃないんだ。魂から大喜びで歌ってるその心こそが歌なんだ、賛美なんだって感動したんです。今、そのことを思い出させて頂きまして。ありがとうございました。

 

本当にもう感動で一杯なんですが、先生のこの歌声をずっと聴けるようにCDでもございますでしょうか。ございましたら是非ほしいなと。1枚でもいいですが。

ありがとうございます。CDが12枚出てまして、あとはDVDが出てます。もしホームページをご覧になることできたらインターネットショップで、そうじゃなかったら終わった後でご住所を教えて頂ければ事務所から送らせて頂きます。
(パンフレットをお持ちでない方、用意してございます。)
すみません恐縮なんですけど、いつもお渡ししてるニュースレターとマンスリーサポートの案内を読んで頂ければ。被災地に行くと全部手弁当なんですね。それでちょっとだけでも支えて頂ければ嬉しく思います。皆さんが考えて下さいまして心の片隅にでも憶えて頂ければ本当に幸いです。色々なスケジュールがそこに載っていますから。今日は講演会なんですけどコンサートもいっぱいやってますから、また是非コンサートにも来て頂ければ嬉しく思います。

 

ご一緒に海外に行ける機会があるとか。

そうなんですよ、3日前に決定しまして。「森祐里と行くイスラエルツアー」というのを毎年やっています。去年はイスラエルとシナイ山だったんですけど、今年はイスラエルとヨルダンに行かせて頂いたんです。来年はローマとイスラエルへの旅が決定しました。来年の4月17日からですけれども、いっぱい歌うんです。毎日最高に楽しいですよ。あちこち歌いながらイスラエル、聖書の世界を歌と共に旅する、そんな旅なんです。価格も毎年できるだけ、今までは29万8千円に抑えて下さってたんですけども、来年はローマがつくから少し上がるみたいなんですけど、そんなにびっくりするほどじゃない価格で設定して下さっているようなので、まだ決定してないんですけれども、またよかったら是非お手元のパンフレットの所にでもお問い合わせ頂ければ詳細をお伝えできると思いますのでよろしくお願いします。

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