第6回目 「死を決意して旅に出る」 菅原洸人(画家)

講座内容を紹介した神戸新聞の記事です。
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菅原洸人
以下は講座の内容を口述筆記したものです。

「死を決意して旅に出る」

画家 菅原洸人

初めまして。垂水区の塩屋に住んで黙々と油絵の仕事をしていて、今年八十九歳になります。毎日キャンバスに向かって音楽を聴きながら主にパリを中心にヨーロッパの風物を五十年以上描いています。普段あまり喋る事もないので、この度岩村先生からこの企画なのでぜひ芸術家の立場で話をとのお誘いでしたが、会場で改まって何かお話しするのは一番苦手な事なのですが、日頃そのご活躍を尊敬している岩村先生のお誘いでも、お断りしていたのですが、同じ絵描きでも長い放浪の年月があったりで他人と違う生き方をしてきたので、何かご参考になればと今ここにおります。しばらくご辛抱願います。

生まれは東北の山形県です。子供の頃は泣き虫で、大きくなっても寝小便たれでいつも一人でひっそり生きているような、影の薄い子供でした。
私の村は周りを遠く山に囲まれた集落でした。冬に遠くの高い雪山に夕日が当たって、神々しいまでに美しいのを眺めては、あの山の向こうはどんな所だろう、行ってみたいなどと思う夢見る子供で、今もその気持ちは続いていて、外国の絵を描いています。

小学校六年の春に北海道の網走の隣の小清水村という所の建築請負業の家に養子に行く事になりました。別に自分の生まれた半農半商の家に不満があった訳でもないのに、遠い北海道に行くのに何のためらいもなかったのは持って生まれた放浪癖でした。
そこはあの知床半島の近くで、夜寝ているとオホーツク海の潮騒が聞こえて、冬は寒く零下三十度にもなって、一升瓶の酒が凍るほどでした。
義父は私を跡取りにしたいからでしょう、毎日学校から帰ったら仕事を手伝わせて毎日厳しく鍛えられました。小学校の高等科、今の中学を出たら本格的に大工の仕事をさせられました。夜になると焼酎を飲みながら昼間の仕事ぶりをあれこれ叱られました。
冬、時には薪をぶつけられて、雪道を裸足で逃げた夜もありました。

折しも日本と中国の間で事変が起きて世情騒然となった時代で、自分も日常を離れて少年航空兵などに憧れるようになって、募集案内などを取り寄せていました。
実父が一年前に亡くなり、兄も病弱で家計が苦しいと母が言うようになりました。父も兄も東京へ行って勉強したい熱意があったらしいのですが、共に長男ゆえに悩んでいたようです。
母に送金したくてもここでは小遣いをそんなにくれないし、いっそ家を出て船乗りになって働きたいと、すごく思うようになって機会を考えるようになりました。

十六歳の五月に家出を決行して釧路に着きました。若気の至りで、何か仕事に就いて、稼いで母に仕送りをしたいと思っての無謀な家出でした。二日ほど飲まず食わず、仕事を探しましたが無理で、最後に親切な自転車屋のご主人のお情けで助けられました。これが私の長い放浪生活の始まりでした。半年ほどお世話になりましたが船員になる夢を捨てきれず、辞めて港で船に石炭積みの仕事をしました。飯場で最低の生活でした。
一年ほどして憧れの船員見習いになりました。東京へ石炭を運ぶ三千トンくらいの船で、真面目に働いていればよかったので、快適な日々でした。しかしここも階級制度が厳しく見習いでも海員養成所を出ていれば待遇もよく給与もよくて、現実は厳しいものでした。
別な船に乗り換えましたが、この船は荷物を積む仕事があれば昔の北朝鮮や大連や樺太などどこでも行くので面白かった。しかし航海中に兄の死を知らされて、いつまでもこうしていられないので、大阪で下船、鶴橋の鉄工所に入って旋盤工にでもなろうと思いましたが無理でした。思い切って東京へ行ってあれこれ仕事を探して、月島の印刷所に入りました。仕事も長続きして東京に住めたらいいなと希望を持つようになりました。
東京には親戚もあるし肉親の姉二人も住んでいたので、長く住みたいと思うようになりました。しかし広々した海で二年近く過ごした身にはごみごみして騒々しい大都会の生活は無理でした。いつも頭痛と目眩がして、独り言を口走るようになりました。
ノイローゼです。隅田川の河口に勝鬨橋が出来た頃、仕方なく七年ぶりに故郷に帰る事になりました。懐かしい故郷ですが都会暮らしをしていた身には出来る仕事もなく母と妹に世話になるのが悩みの日々でした。ぼちぼち水彩画などを描き始めていましたが生活の足しになる筈もありません。

その頃は戦争も大きくなり、軍需関係の求人がたくさんありました。横須賀の海軍の飛行機関係の工場に行く事にして、また故郷を離れる事になりました。工場の電気関係の仕事をしていましたが、欧米関係が悪化していたとき、十六年十二月八日の朝に突然ラジオで日米開戦が放送され大勝利だと伝えられて皆が万歳して喜びました。
ですが勝った勝ったとの大本営発表とは違って、だんだん負け続けて、国民を苦しみの極に落として昭和二十年についに無条件降伏になったのでした。
そこにいた頃は油絵の具一式を買って油絵の魅力に深く入りつつあった時代でいつまでも忘れられない青春時代でした。昭和十七年に召集令状がきて、山形の部隊に入って今度は兵隊として、有無を言わせぬ強権のもと一億一心亡びの道に追い立てられたのでした。

早朝ラッパの音に起床、丸一日訓練に次ぐ訓練、それも爆弾を抱いて敵の戦車に体当たりするのが、最終目的でした。すべては天皇陛下のため、上の階級の兵はその事を自分の力にして下級兵につらく当たりました。三ヶ月近く訓練を受けて、いよいよ実戦的な訓練、木銃を持って戦う訓練に入りました。左胸に革製の防具を着けて、相手の胸を力いっぱい突くのです。体の大きい力持ちと当たって、とうとう夜熱を出し病院行きです。
三ヶ月ほどで除隊させられましたが、一国民として誠に申し訳ない気持ちでした。しばらくして福島県は須賀川の傷痍軍人の療養所に入れられて。残念でした。
一年ばかりして体力もついて、元気になってここを出たいと張り切っていましたが、ある朝に喀血をして悲観のどん底に落ちました。それから慎重になって、図書室の本を読む事にしました。
美術、文学、宗教とたくさん読んで、学校に行けなかった分を取り戻すつもりで一所懸命に勉強しました。絵を描く仲間もいて、一緒に展覧会もやりました。

しかし戦局はますます悪くなり日本中の大都市が爆撃されて敗戦濃厚になり、我々も死ぬのなら故郷に帰ってと退所する事にして、山形の我が家に帰りました。
田舎だから安全に療養できると思っていたのに、五、六キロ離れた飛行場に毎日のように艦載機が飛んできて、機銃掃射をやっているのです。田舎道を歩いていてもどこからか飛んできて、バリバリやられるのです。藁小屋に隠れていたら、飛行機の風防の中の若いアメリカ兵の顔が見えました。間もなく戦いが終わって、健康も大分回復しこれまでの親不孝の分を取り返すべく、畑仕事や里山の仕事に精出して働き始めました。
ところが秋口の朝方、大喀血。万事休す、母と妹には申し訳ないがこれで何もかも終わりだと、またまた病床に就きました。一週間ほどして、うつらうつらしていると部屋の中に白い雲みたいのがたなびいて、雲の中から亡くなった北海道のおばあさんや東京で亡くなった姉や父、兄などこちらを黙って見つめているのです。あ、これがお迎えかと思いました。
そのまま一週間ほど過ぎて、何となく落ち着いて回復に向かったようです。しかし肺病といえば田舎では疫病神みたいに嫌われて、家族にも大迷惑な出来事です。これからの事で心が痛み、作業小屋に病床を移して母が何かと滋養のある食事を運んでくれて面倒を見てくれますが心苦しい毎日が続きます。

その頃アメリカから大規模なキリスト教の伝道団がきて日本中にその名を知られるようになって、私も藁にもすがる思いで山形市の教会に葉書を出したら、交通の便も食糧事情も大変な時期に三時間もかけて逢いにきてくれて、話をし祈ってくれて小さな聖書を頂戴しました。少しづつ体力もつけてスケッチなども出来るようになりましたが、母と妹に世話になるのは申し訳なくて何とか自分で生きる方法を模索していました。
そして聖書の中に私への答えを発見しました。それはヨハネによる福音書十一章の二十五節でした。「私はよみがえりであり命である、私を信じる者はたとえ死んでも生きる」との御言葉でした。そうか、今までは死ぬのが怖くて弱気になっていたが、この御言葉を信じて祈ればたとえこの身は亡びても永遠の命に生きられるのだと確信しました。
そしてたとえ田舎で元気になっても、自分の好きな絵描きでは生きられないので、どこか暖かい地方に行って一切を神様に任せて生き抜く方策を考えました。
妹に婿さんにきてもらって後顧の憂いをなくして、もう二度と故郷に戻れないかもしれないと昭和二十七年春先に覚悟を決めて出発しました。初め静岡県に向かって少し暮らしましたが、最終的には和歌山県の那智勝浦に着きました。ここは霊地でもあるし修行をしたり、いよいよ駄目なら山の中で死ねばよいなどと、明るい紀州の山々に気持ちが楽になりました。

信仰の地で港も綺麗で、スケッチをしたりしましたが、夜に雨が降り出したので丘の崖にある工事中の大きな穴の中に入って莚を被って寝る事にしました。
夜中に激しい雷が鳴って。ガラガラズドーンと落雷です。すぐそばにある銅線の束が金色に光ってバタバタと動いています。これに触っていたら黒焦げの無縁仏でした。翌朝海岸の洞窟に住んでいる老人に助けられてしばらく同居させてもらいました。
大分体力もついて、写生しては絵の好きな人に買って頂いて生活のほうも落ち着いてきましたが、このままでは田舎まわりの絵師で終わってしまうので大阪のほうへ行く事にしました。
古いリヤカーを買って昔覚えの大工見習いの腕で板を張り屋根をつけて、夜は中で寝られるようにして、これで紀州海岸を大阪の方へ行こうと準備をしました。

秋になって世話になった山本さんに厚くお礼をしていよいよ海岸の道を出発です。和歌山の漁村の人々は皆さん親切で、夜は泊めてくれたり、お風呂に入れてもらったりで嬉しい毎日で。絵を描いてあげたり買ってもらったり、磯で食事を作って食べて、潮騒を子守歌に寝る旅でした。秋深くなって紀州路のある集落に着いたとき、そこの村長さんが親切で村の公民館で一冬越したらと鍋釜から布団に火鉢も貸してくれました。
ありがたくお世話になって漁港を描いたり肖像画を頼まれたりして、また子供たちとも仲良しになって磯の小さな貝の食べ方を教えてもらったり快適な毎日でした。

ある夜、寝ていると枕元が輝くばかりの光に包まれました。はっとして見ると長い黒髪の女の人で白い着物に朱色の袴をはいた巫女さんでした。はっとしましたがもう見えなくなりました。
翌朝近くのお宮様にお参りしました。それ以来時々何かを感じる事が多くなりました。

昭和二十八年秋いよいよ憧れの神戸の三宮に着きました。山手に綺麗な洋館が見えるので歩いていたら、一宮交番所というのがあったので、身元を証明する戸籍抄本を見てもらって絵の勉強のため回っていますが神戸にしばらく滞在して本格的に絵の勉強をしたいのでどこか住み着いていい空き地をお願いしますと頼んだら、若いお巡りさんが連れて行ってくれたのが何と美しい白い教会の裏の空き地でここに住んでもいいよと言ってくれました。
長い間自分の生き方に苦しみ病に苦しんで、聖書の御言葉に頼って生きてきまして、辿り着いたのは何とここはかの大画家小磯良平先生の屋敷の跡地にできた教会とその裏庭だったとは何たる奇跡と御恵み。この上ない土地に招いて頂いたのでした。

早速仕事を探して三宮駅前でサンドウイッチマンの仕事にありついて、早速プラカードを高々と掲げて宣伝に盛り場を回るのです。三宮センター街をぐるぐる夕方まで回って三百円ほどもらいました。神戸での初めての収入です。近くにジャンジャン市場という戦後そのままの市場があって、なんでも安い。ラーメン一杯二十円です。ここには新聞記者、カメラマン、会社員、詩人に絵描きからルンペンまで集まります。食事はここに決めました。
次は本命の絵の勉強です。市営の美術教室が北野小学校にあって週に四日、欠かさず通い猛烈に勉強をしました。講師は小磯先生から小松、増井、奥村、伊川等々神戸では有名な先生方です。そのうちにグループ展をやり、元町で個展を、次は東京銀座のあかね画廊に兜屋画廊と発展しました。あかね画廊のときに旅行会社の企画で絵描きばかり十五人で二ヶ月五十万円のヨーロッパスケッチ旅行に誘われました。絵描きなら誰でも憧れるパリ、工面して行く事に決めました。一九七〇年の春、羽田からスイス航空の南回りで出発です。
五年前に結婚して男の子を恵まれたのと一緒に東京の姉の家に一泊して、皆が見送りにきてくれていよいよ憧れのパリへ飛び立ったのです。

最初に着いたのがギリシャのアテネで有名なアクロポリスのパンテオンの神殿で、千年二千年の建物が残っている大理石文化のすごさ、それはイタリヤにスペイン、ポルトガル、フランスと回って石造りの建物が造っている壮大風景に圧倒されました。しかしこれらは、権力者の命令で造られた血と涙の結晶だと思わされました。
初めて行ったヨーロッパはさすがに油絵の発祥の地で油絵向きの風景と、違う民族の謎とポエジーに魅力を感じて、一人で三十年も通って作品を今も描き続けています。
ご存知のようにヨーロッパは大方キリスト教国ですが、昔から時の権力者と教会が手を結んで、庶民を圧迫して富を自分たちのものにして、随分と悲惨な時代もありました。
イタリヤのベニスに行ったとき、一番大きくて綺麗な教会の地下に石造りの陰惨な地下牢があるのを見ました。時の権力者に逆らったり教会の教えに反対する者を入れたのでしょう。
またフランスの田舎にあの有名な画家のゴッホがいた町があります。そのゴッホが描いた古い教会もあるので、何回も行きましたがその近くに村の広い墓地があります。立派なお墓がたくさんありますが、一番隅に弟テオと二人の墓があります。
ほかのお墓は立派で彫刻や写真も飾ってあるのに二人のは、五十センチ角くらいの薄い石に名前だけ書いてありました。これはゴッホが自殺したから教会に反対されたのだそうです。しかしゴッホは病に苦しみながらも今までにない描き方で死後、爆発的な人気で世界中の美術館に歓迎されているそうです。
同じ人間の一生ですがその行い業績で雲泥の差ができます。でも人は自分の生まれて置かれた立場で誠意を持って真摯に今を生きるのが最高だと信じています。

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