死の講座 岩村義雄

講座内容を紹介した神戸新聞の記事です。 クリックすると拡大して御覧いただけます。 以下は講座のレジュメです。

『神戸新聞』(2011年4月21日付)

「なぜ,今,死を考えるか」    
KCC講座(神戸新聞会館)第一回目

2011年4月11日 講 師 : 岩村義雄(「みんなで『死』を考える会」会長)

完全原稿 ⇒ なぜ,今,死を考えるか

<序>
「つゆの世は つゆの世ながら さりながら」という小林一茶[1763-1827]の句がございます。人の命が東日本大震災のように葉っぱの上のつゆのように,突然にはかなく潰えてしまうという境地です。一茶は52歳の初めて結婚で,三男一女を授かりますがみな幼くして死んでしまいます。妻菊にも先立たれてしまいました1)。そして一茶はさりながら」と後半に句を添えます。親としてのやるせなさがにじみ出ていませんでしょうか。切ないこの世,露のようにはかない。しかし,それがこの世なんだということなんでしょうか。皆さんも,いかんともしがたい無常を受け入れざるを得ないことを感じておられるでしょうか。今日から月に二回始まる『みんなで「死」を考える』講座は一茶の「さりながら」,つまり「けれども」から,出発しています。

ブレーズ・パスカル[1623-1662]は言いました。「人間は,死,悲惨,無知を癒すことができなかったので,自己を幸福にするために,それらを敢えて考えないように工夫した」と。確かに,宝くじが当たる確立より,的中するのです。それも100パーセントの確立です。どんな人も逃れることができない「死」について,パスカルは「人間は生まれながらの死刑囚である」,とたとえます。すべての人は生まれた瞬間にほぼ100年のうちに死刑は執行されるのです。しかし,その方法は伝えられないのです2)
マルティン・ハイデッガー[1889-1976]は,人間存在は「死への存在(Sein zum Tode)」と言いました3)
どうして災害が起こったのでしょうか。人々が堕落し,拝金主義にうつつをぬかしているから,天がこれをこらしめるために,大地震が起こったのでしょうか。ご一緒に考えていきましょう。

(1) 死は隠されている
 a. 東日本の大津波
 東日本大震災は今年,3月11日2時46分のマグニチュード9.0の大地震と,押し寄せる津波,福島原発の爆発によって未曾有の爪痕を残しました。だれが予期したでしょうか。少しの時間,現地に赴いた神戸からの5人の若者たちの記録をご覧ください。
「私たちがおとずれた宮城県の若林区,石巻市沿岸はあまりにも無防備であった。神戸を出る前,警報を聞くやいなや,すぐに逃げればよかったのにと思ったものだ。警告を無視した人が海の藻屑として犠牲になったにちがいないと。しかし,実際に,現地で被災した方々と出会った時,そんな単純な理由ではないことを思い知らされた。確かに,警告に従って,すぐに逃げた人の多くは助かった。家財とか物質に未練があるため,取りに戻った人の多くは命を失った。ところが,過疎であり,若い人々は都会に行き,故郷を去ってしまっている。残っている年配の方々は,とっさの行動がそんなに簡単にはできないのだ。一階から二階へ逃げれば助かったかもしれないが,足腰が機敏に動かない。津波は自動車で言えば,時速40~50㎞の速さで襲いかかってくる。被災者は新幹線の速さに思えたそうな。では,自動車で逃げればいいではないか,とボランティアの若者の一人は言い放った。自動車で逃げた人のほとんどは逃げ切れず,湾の山並みの麓に打ちつけられていた。なぜなら我先に逃げようとする自動車は必ず,数珠つなぎになり,釘付けになってしまうからである」4)5)
阪神淡路大震災の180倍のエネルギーの大地震が起きました。専門家も想定外だと口をそろえて言います。

 b. 盗人のようにやってくる
 神戸の須磨の一ノ谷は源平の合戦でも有名です。1184年,平家の軍勢3万人,一方源氏方は2000とも3000ともいわれ,平家方の勝利をだれも疑いませんでした。ところが源義経は,平家の裏手の険しい山道を一気に下って夜討ちをかけました。「七日の卯の刻に,九郎義経,三千余騎にて一の谷のうしろ,鵯越にうちあがって,『ここを落とさん』とし給ふ」と,不意をついたのです。平家の軍勢は総崩れとなり,短時間のうちに完全に敗北したのです6)
まさに死はどのように人間に訪れるかだれもわかりません。

c. メメント・モリ
 一休[1394-1481]さんは,がいこつやどくろを良く話題にしています7)。京都・田辺にある一休寺(報恩庵)に,一休作と言われるドクロ面も残っています。京都・田辺にある一休寺(酬恩庵)に,一休作と言われるドクロ面も残っています。元旦の朝,一休はつぶやきます。「まことに愚かなるかな。朝顔の日陰待つ間をも,さかり久しき花とながめ,蜉蝣(かげろふ)の青天に羽をふるひて楽しむ間もなき世の中に,糞(くそ)に箔(はく)ぬる正月言葉(ことば)や,たゞ時の間の煙ともなりなむと,打見るより思はるゝ。いで物見せん人々よ」と。一休にとりましてお正月の華やいだ時に,奇妙な行動をとります。「墓はらへゆきて,しやれ頭(かうべ)を拾ひ来り,竹の先に貫きて,比は正月元日の早天に,洛中の家々の門の口へ如鼓 如鼓と彼しやれ頭(かうべ)をさし出し,「御用心 御用心」とて歩(あり)き給ふ」。一休はお墓からわざわざドクロを拾ってきて,竹の棒の先にぶらさげて,一軒一軒,戸口で「御用心,御用心」と言って歩いたのです。お正月のめでたい時,おとそ気分でゆったりした気持ちの人々に痛烈なクリティック critic を加えているエピソードです。いつかは必ず訪れる死を忘れなさんなと警告しているのです。バラエティ番組を見て,ゲラゲラ笑っている人々,もう東日本大震災の報道はあきたと思っている若者たちに対して,一休は「死を覚えよ」と活を入れているのです。
死刑囚たちも死刑の執行が間近になってはじめて時間の価値に気付いたりします。「死刑の執行が間近いと思うと,毎日毎日がとても貴重なのです。一日一日と短い人生が過ぎていくが早すぎるように思えます。それしても社会にいるとき,なぜ時間をもっと大事にしてかからなかったのかとくやまれてなりません」,と8)。 また,インフォームド・コンセントにより,余命の宣告を受けた癌患者は「なぜわたしが」と怒り,わめいたりします9)。こうした反応からわかることは,お一人ひとりの生きている時間は限られているということです。阪神淡路大震災で消防士であった父を失った若者は殉職した父の死を無駄にすることなく,その日暮らしの生き方から他者に仕える仕事を選択するケースも少なくないのです。

(2) 死に備える
 a. 天罰論
 関東大震災[1923(大正12)]の時も,天譴論(てんけんろん)と言いまして,神様が天罰を加えられたという発言がございました。内村鑑三の日記には,「呆然として居る。恐ろしき話を沢山に聞かせられる。東京は一日にして,日本国の首府たる栄誉を奪われたのである。天使が剣を提げて裁判を全市の上に行うたように感ずる」と残されています10)。 別のキリスト者である山室軍兵[1872-1940]も言っています。「此度の震災は,物慾に耽溺していた我国民に大なる反省を与える機会であった。堕落の底に沈淪せる国民に対して大鉄槌を下したということは,大なる刺戟と反省とを与えるに十分であった」,と11)。 この度,東日本大震災を受けて,石原慎太郎・東京都知事は14日に,「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」,と述べたことは皆さま印象に残っておられるでしょう。しかし,私は天罰,天譴論を支持していません。なぜなら 被災地で犠牲になった多くの方は,高齢者,幼児や,弱者たちだからです。
私は,聖書学者でもなければ神学者でもありません。もし全能の神が存在するなら,恐怖に満ちた被災地を直視なさることでできるだろうかという疑問がわきあがります。旧約聖書には,次のように書かれています。「光を造り,闇を創造し 平和をもたらし,災いを創造する者。わたしが主,これらのことをするものである」(イザヤ45:7)12)。聖書の神は,平和だけでなく,「災い」(ヘブライ語  ラア)をもたらすと書かれています。ラアは旧約聖書に299回出ています。サタンではなく,すべて神がもたらすと書かれています。そうしますと,地球上の震災,疫病,紛争などもすべて神が許していることになります。3000年以上も,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の人たちは,聖書を聖典として神を信頼し続けてきたことでしょう。「ああ,神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが,神の定めを究め尽くし,神の道を理解し尽くせよう」,と神が災いを行なうしかるべき理由があると黙想してきました(ローマ 11:33)。キリスト者の問いの中心には次の言葉があるのではないでしょうか。「三時ごろ,イエスは大声で叫ばれた。『エリ,エリ,レマ,サバクタニ。』これは,『わが神,わが神,なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタイ 27:46),という十字架上の言葉です。つまりイエス・キリストの問いはキリスト者と同じく「なぜわたしをお見捨てになりましたか」,という問いです。アフリカの奴隷制度をすぐになくなさなかったこと,あるいはヒットラーを生後すぐに殺さなかったことには理由があると熟考すべきだと思います。

2000年前,パレスチナに過激派のユダヤ人がいました。当時,ローマ帝国の圧政で,重税のため,イスラエルの民は厳しい生活を送らねばなりませんでした。愛国心の篤い一部の人々は武装蜂起をしました。ローマから遣わされていた総督ピラトは容赦なく鎮圧してしまいました。もともとに鎮圧されたという事件があったようです。その発端はピラトがエルサレムに水道工事をするために、神殿のお金を用いることを要求したことにあったといいます。当時のイスラエルの飲料水,下水は水道橋を張り巡らすことによって,人々は恩恵を被っていました。現在でも水道橋がずっと続く歩道橋のように残っています。イスラエルを訪問なさると見ることができます。水道工事そのものはエルサレム市民のためになることです。ところが,ピラトのやり方は神殿のために捧げられるお金をローマ帝国の功績のために用いられることに反発の声が高まってきたのです。ユダヤの国粋主義者,つまり選民であることを誇りにしている人たちは相当の抵抗感があったようです。ですから,プライドの強いナショナリストである過激派による武装蜂起が起きたわけです。もちろん総督ピラトは武装勢力を大人が赤子をひねりつぶすように,ひねりつぶしたのです。そして反乱者を処刑しました。謀反に対して,ユダヤ人への見せしめのために,謀反を起こした者たちの血をエルサレムの神殿にぬりたくったのです。ユダヤ人にしてみれば誠にショッキングな事件があったようなのです。さらにこの忌まわしい水道工事中にはもう一つの悲劇的な事故が起こりました。それはシロアムの塔が倒れて労働者たち18人が犠牲者となったということです。いったい,神がいるならばどうしてこんなことが起こるのか,という問いがございました。当時の人々はこれらの一連の事件を経験して,神の御心はどこにあるのか,相当苦しんだようです。一連の災いに対してキリストは答える中で問われたのです。「ちょうどそのとき,何人かの人が来て,ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは,ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが,あなたがたも悔い改めなければ,皆同じように滅びる。また,シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は,エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも,罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが,あなたがたも悔い改めなければ,皆同じように滅びる」(ルカ 13:1-5)。イスラエルのガリラヤ人が「罪深い者だったからだと思うのか」,と二度も問うています。そして「決してそうではない」,と因果応報を否定しているのです。

「悔い改めなさい」,というのは,ギリシア語の意味は方向転換しなさい,思いを変えなさいということです。今回の被災を天罰と考えるのではなく,視点を変えた生き方をする機会とするのです。ピンチはチャンスであるのです。

 b. 死をあきらめる ― 諦観
 諦観の「諦」はインドの原語「サットヤ」が語源です。サットヤとは,“純質”を意味しています。「観」は読んで字のごとく,“観る(みる)”です。つまり諦観とは,「純質を観る」ことが本来の意味です。広辞苑では,「明らかに真理を観察すること」,と定義しています。しかし,いつしか,諦める(あきらめる),という風に受け取られてしまうようになりました。ですから,今回も東北から関東を襲った地震,津波,原発の被災について,苦悩を観ると同時にあきらめる境地がございます。そういう運だったんだと。ありのままを受け入れ,自分の力ではどうすることもできないと考えるのです。「生をあきらめ死をあきらむるは,仏家一大事の因縁なり」,と道元禅師が言っています13)。聖書でも同じように,諦観を思わせる描写がございます。「かつてあったことは,これからもあり かつて起こったことは,これからも起こる。太陽の下,新しいものは何ひとつない」(コヘレト 1:9)。コヘレトの書に書かれていますように,「太陽の下,新しいものは何ひとつない」,と“空”の世界が説かれています。高校の教科書に出ているディオゲネス[紀元前412-323]というギリシアの哲学者を考えてみましょう。当時の世界を制服しているアレキサンダー大王がディオゲネスに語りかけました。「何でも欲しいものをやろう。何か欲しいものはないか」と。すると「あんたがひなたぼっこの邪魔になってるんで,悪いけどそこをどいてくれないか」,と,何にも動じない生き方を示しました。言ってみれば,一切のしがらみ,権勢,欲を否定した諦観の姿勢です14)
私たちにできることはあきらめることだけなのでしょうか。
哲学者和辻哲郎[1889-1960]はご著書『風土』の中で言っています。「きれいにあきらめる」ことが日本人の心的特性であり,淡白に忘れることは,日本人が美徳としたところであり,今なおするところである」と書いています15)。また武者小路実篤[1885-1976]は日記につづっています。「自分は大地震の時日向にいたので何も知らなかった。だから地震や火事の恐ろしさをまのあたり知ることは出来なかった。しかし来てからいろいろのことを聞くにつけて,随分恐ろしい出来事だったと思った。死んだ人の話なぞには正視できないようなことがいくらでも起ったことを知った。しかし皆過ぎてしまったことである。もう自分達には如何とも出来ない。勿論前に知っていたとしても,逃げることより他,別にいい知恵が自分にあるとも思わないが,すぎてしまえば,生き残った者は生きのこったよろこびを味わって生きてゆこうと努力するより仕方がない」16)

c. 最後の敵
 西暦3世紀の中国の魏の国の歴史書「魏志倭人伝」に日本人(倭人)に関する最も古い記録があります。当時の日本の葬儀の様子が記されています。
「十数日間死体を家の中に置く。その間家族は肉類を食べず,喪主は大声をあげて泣く。一方,親類,友人が来て飲食し,歌い,踊る。宴会は死者の肉体に魂を呼び戻すための呪術的な意味をもつ行事で,魂招(タマオギ)と呼ばれる。こうして十数日を過ごし,死体が腐敗し始めるとこれを土中に葬り,家人は死の穢れを水中に禊ぎして清める。」
ここにある思いは,死とはかなわんという忌み嫌う気持ちだけでなく,水中で清めるということは,死は穢れという気持ち。つまり,死は忌と穢れであります。そして死後,人間は霊として存在するという日本的なアニミズム,有霊観であります。忌み嫌う「忌」は今では一定の期間喪に服する期間となり,家の前に「忌」の貼り紙をし,葬儀から帰ると「清め塩」を身にふりかけます。また,肉体よりも魂を大事にします。
仏教が渡来してからの西方浄土の十万億土という遠い彼方という発想ではなく,古代の人々は,できるだけ死者の世界を自分たちの世界と余り距離のない所に想定して,死者が自分たちの周辺にいると素朴に信じたようです。「先祖が草場の陰から見守ってくれる」とか「そんなことではご先祖さんが,草場の陰で泣いている」と言った表現はそのことをよく表していると思います。死を忌み嫌いながら,一方では,先祖の魂は身近に感じていたいという願いや気持ちを今も私達は引きずっているように思います。
現代の識者は死後について別の視点から考えます。
“死は敗北,死後はない。”[亀井勝一郎],
“何の意識もない無になる元の状態に戻るのが,人間本来の姿だ。”[杉本苑子(そのこ)]
“死後の世界はないものと心に決めた。煩悶の時の流れの中で,「死は分かれのとき」,という一つの悟りに達して死を受容した。別れを告げた自分が,宇宙の霊に帰って永遠の休息に入るだけである。”[岸本英夫(東大教授・宗教学)自著「死を見つめる心」]

さて,最後に,永遠のベストセラーである聖書の視点を紹介します。
「わたしが生きているので,あなたがたも生きることになる」,と。
聖書の最大の福音は,キリストが私たちの罪のために死んで,葬られて,3日目によみがえられたことです。キリストの復活は死者の初穂です。みなさんは,死んで,よみがえることを信じておられますか。まぶたを閉じて,もう二度と目を開けることなく,無になるかもしれないとよぎることはありませんか。
人類の最大の敵は,死です。死による無,つまり滅びを忘れようとしても,病にかかったり,隣人,家族の死を通して,現実に戻されます。避けることができない恐れです。では,死に打ち勝つ力とはなんでしょうか。こたえはひとつしかありません。復活です。復活に対する信仰です。とどのつまりキリスト者の信仰を明確にするのは復活することを信じているかどうかではないでしょうか。「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」のです(第二コリント5:4) キリストの復活と私たちの復活の信仰は,死と滅びの恐れ,不安から大きな希望と喜びに移し替えられたのです。
「最後の敵として,死が滅ぼされます」(コリント第一 15:26)。

<結論>
「散るさくら 残るさくらも 散るさくら」特攻出撃していく時の遺書でした。簡潔に生死を納得させてくれる句,良寛さんと思っている人が多いようですが,間違いのようです。作者は幕末の志士雲井龍雄の処刑時の辞世です。「死」を『所詮,どうすることもできない』,解決不可能な問題と決め込んでいる「対処療法的」な消極的態度が,前提にあります。死については宗教者だけで説明できる領域ではありません。法律家,医師,哲学者,ビジネス界,宗教家たちによるフォーラムを立ち上げ,次世代に発信していきたいと願っています。神戸だけでなく全国的な広がりを期待しています。

出典
1)『江戸人の生と死』立川昭二 筑摩書房 1989年。
2)『パンセ』前田陽一,由木康訳 中公文庫 1973年。
3) 『存在と時間』ハイデッガー 細谷貞雄,亀井裕,船橋弘訳 理想社 1974年。
4) 「東日本大震災 被災地便り」岩村義雄 神戸国際支縁機構 2011年。
5) 『キリスト新聞』(2011年4月2日付)。
6)『平家物語』水原一校校訂 新潮日本古典集成 1979年。
7) 『仮名草子集』「一休ばなし 巻一」新日本古典文学大系 渡辺守邦校注 岩波書店 1991年。
8) 『死刑囚と無期囚の心理』加賀乙彦 金剛出版 2008年,
9) 『死ぬ瞬間の対話』E.キューブラー・ロス 川口正吉訳 読売新聞社 1981年。
10)『内村鑑三著作集第20巻』岩波書店 1958年。
11) 『太陽』「真に国民反省の機」 1923[大正12]年11月号。
12)  拙稿『目薬』 №29 2003年 8頁。
13) 『正法眼蔵―有時・諸悪莫作を味わう』内山興正 柏樹社 1984年。
14) 『ギリシア哲学者列伝 上』ディオゲネス・ラエルティオス 加来彰俊訳 岩波書店 1984年。
15) 『風土』和辻哲郎 岩波書店 1935年。
16) 『改造』武者小路実篤 改造社 1923[大正12]年大震災号。

※ 引用聖書はすべて『新共同訳聖書』日本聖書協会 1987年。

「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」(在原業平[825-880] 『古今和歌集』)。死ぬことをいつかは人は必ず行かねばならない道とは以前から聞いて知っていました。華やかな生涯を送った業平にとって,これほど差し迫るとは思いもよらなかったなぁ,という歌です。パスカルを持ち出すまでもなく,すべての人は死刑囚です。すべての人は生まれた瞬間に「百年のうちに死刑は執行される。けれど,その方法は伝えない」と言われたりします。
戦後1945年には,日本人の平均寿命は男性23.9歳,女性37.5歳の41歳でした。今では82歳の高齢社会を迎えています。800万人以上が80歳を超えています。定年も50歳でしたが,今では70歳に引き上げる審議もなされています。
日本の大都会であっても,散歩していて出合うのは,ペットである犬です。しかし,子供を見かけなくなっています。公共の乗り物でも若者の姿より,高齢者の方が圧倒的に多い時代になりました。いまだかつて死を経験して,明確に死後はどうなのか語る人はいません。ただ頭の中でいろいろと観念として考えているのです。死について明確な洞察をもつと自ずと人生はかけがえのないものになります。阪神淡路大震災で,6000人以上の犠牲を体験した地域から発信します。
死については宗教者だけで説明できる領域ではありません。法律家,医師,哲学者,ビジネス界,芸術家,宗教家たちによるフォーラムを立ち上げ,次世代に語っていきたいと願っています。

みんなで「死」を考える会 会長
岩村 義雄

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